1974年に創業した、中村ブレイスの初代社長(現会長)中村俊郎さんは1948年に生まれ、島根県大田市の高校を卒業後、京都の義肢製作所に入社する。その後アメリカのUCLAメディカルスクールなどで最先端の義肢装具の製作技術を学び、故郷で一人、起業した。

お客さんが月一人か二人といった苦しい経営が続いたが、起業して10年が経った80年代後半、シリコーンゴム製の靴の中敷きの研究開発を始め、世界9か国で特許を取得。その後もシリコーンゴム製の人工乳房、手、鼻、耳など独自の製品を加え、事業を成長させていく。

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患者さん一人一人のオーダーで製作する中村ブレイスの義肢は、本物と見分けがつかない程のクオリティの高さが評価されている

現在では80名にまで増えた社員のうちIターン、Uターンで移住してきた社員がそれぞれ各10名、計20名だ。

俊郎さんは義肢装具製作だけでなく、古い建物の改修・再生も続け、現在65棟目の古民家改修を進めているところだ。再生された建物は社員寮やオペラハウス、宿泊施設、パン屋などに生まれ変わり、移住してきた人達の住まいとしても使われている。

今回話を聞いたのは、二代目社長の中村宣郎さん(45)だ。
宣郎さんも父俊郎さんと同じ島根県立大田高校を卒業後、上京して日本大学経済学部に進学。その後、高田馬場の早稲田医療専門学校で義肢装具士の資格を取り、2003年、大森町へUターン。中村ブレイスに入社し、2018年二代目社長となった。現在、妻さと子さん(42)と、3人のお子さんとの5人家族で、明治期の古民家を改修した家に住んでいる。

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中村ブレイス・中村宣郎社長

町並みの存続のために始められた古民家改修だったが、今は、社員の住まいにもなっている。大森町に住みながら仕事ができる環境が、若者がIターン、Uターンしやすい一因にもなっていると宣郎社長は言う。

「移住するためには仕事と家が必要です。若者が、義肢装具という地道な仕事とこの町に魅力を感じて来てくれていることが有難いです。再生した古民家は当社の社員家族が住む寮としても使っていますが、全く別の仕事をする人からも、住みたい、商売に使いたいという希望を受け、実際に賃貸契約で使ってもらっています」

ヨーロッパにも数カ月に一度、数十点単位の義肢装具を発送する同社。「ここからコツコツと世界を目指す仕事をしたいという若者が来てもらえると嬉しい」と社長。

「遠くから当社で働きたいと来てくれる人には、我々が改修して新たないのちを吹き込んだ施設や家を活用してもらいたい。石見銀山に古くから続く『来る人拒まず』の姿勢で、一緒に新たなものづくり、挑戦をしていきたいです」