運動神経は鈍い方で、体力も並

登山家のすごさはひとまずおいて、栗城さん自身のすごさはどこにあるのか?

幼馴染の齊下英樹さんは、「運動神経は鈍い方です」と明言する。中学時代、野球部でも栗城さんと一緒だった。齊下さんは1年生の秋から正捕手となりクリーンナップを打ったが、栗城さんは3年間ベンチを温めた。

野球部でパッとしなかった栗城さんの身体能力が、登山を始めた大学時代になって急に開花したとは考えづらい。彼を知る複数の登山関係者はこう話す。
「技術はないね」
「体力も並」
「パフォーマンスがすぎるな」

日本ヒマラヤ協会の顧問で、札幌市内で居酒屋「つる」を経営していた大内倫文さんは、私が頻繁にコメントを求めた一人だ(店は2019年に閉店)。

「すごさねえ……? ヒマラヤを何度も経験している人たちは、『ふざけるな』って内心はらわたが煮えくり返っていると思うよ。でもまあ、なかなかいないよね、ああいう発想の登山家、っていうか、登山やってる人間は」

登山やってる人間、とわざわざ言い直したのが印象的だった。

大内さんの自宅には、世界の峰々に次々と新ルートを開拓した山野井泰史さんや、功績のあった登山家に贈られる「ピオレドール(フランス語で、金のピッケル)賞」を女性として初めて受けた谷口けいさんなど、日本が世界に誇る登山家が泊まりに来ている。

「これ、誰だかわかる?」

大内さんが壁にかかった1枚の写真を指差した。2人の男性が写っている。

「右は私。1985年、37歳のとき」

左の男性はアジア系の外国人だった。風格のある老紳士が柔和な笑みを見せていた。

「テンジン・ノルゲイさん。この翌年に亡くなったけど」

1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー氏(1919~2018年)とともにエベレストに史上初めて登頂したシェルパの名前は、登山に疎い私でも知っている。亡くなる前年、70歳のときの写真だという。大内さんがブータンの未踏峰ガンカー・プンスム(7570メートル)に遠征した帰り、インドのホテルで会って撮影したそうだ。

1967年に設立された日本ヒマラヤ協会は、ヒマラヤ登山のアカデミックな役割を一手に担ってきた、と大内さんは話す。世界各国の登山隊がいつ、どの山に、どんなルートで挑んで登頂もしくは敗退したか、敗退の理由は雪崩か事故か、死者やケガ人は出たか、を克明に記録してきた。それはヒマラヤに挑んだ同胞たちへの賛辞や弔意であり、後進に示す貴重な道標でもあった。

しかし、2005年に個人情報保護法が施行されてから、情報収集がままならなくなった。折しもヒマラヤ登山が商業化し、旅行会社が参加者を募る「公募隊」が急増していた。ツアー会社は個人情報を盾に情報を流さない。敗退した場合は特にそうだという。

ヒマラヤ登山の姿が大きく変わろうとしていた時期に、栗城史多という登山家がメディアで脚光を浴び始めたのは、偶然ではない気がする。栗城さんは一時期、大内さんが主宰する「北海道海外登山研究会」の実行委員にも名を連ねていた。

「彼にはヒマラヤの大きさを知ってほしくて、何冊も本を貸したんだけどね。読んだのか、読まなかったのか、1冊も返って来なかった」

ヒマラヤの歴史を伝えていこうと考える人たちにとって本や資料がどれだけ大切なものか、「新時代の登山家」にはピンと来なかったのかもしれない。