「誰の助けも借りずに生きる」などあり得ない
私があなたの今の暮らしを肯定する理由は、あなたが〈幸せである〉とおっしゃるからで、あなたが〈誰にも迷惑をかけていない〉からではありません。そして、あなたのおっしゃる〈幸せ〉の一部が、もしも〈誰にも迷惑をかけていない〉という理屈に支えられているのなら、残念ながらその幸せは〈本当〉ではないでしょう。
山奥や僻地で、電気や水道を使わずに暮らしている人々を指し、メディアはしばしば「誰の助けも借りずに生きる」と紹介しますが、この表現は、根本ではまったく誤っています。
たとえば、僻地で暮らしている人々が、盗賊や焼き打ちといった理不尽な暴力に襲われずに済むのは、周囲に人がいないからではありません。ごく単純にいえば、その僻地が国家(という公共的、共同体的枠組)の内側にあるからです。そしてまた国家の内側が安全なのは、俗世の人々が三権を活用して法を整備し、法の実効性を担保する裁判所や警察機構を維持しているからでしょう。
「迷惑」という言葉は、「厄介」と呼び替えたほうが通りがよいかもしれません。私たちはただそこにいる、存在しているだけで、どなたかの厄介になっております。それは仏教も同じです。いいえ、仏教のみならず、すべての宗教と宗教者は、世俗の厄介になることで存続を許されているのです。