「ひとりで死ね」という言葉の多面性

川崎殺傷事件の犯行直後に自死した容疑者に対して投げつけられた「(死にたいんだったら)ひとりで死ね」という言葉。
写真家/ノンフィクションライターのインベカヲリ☆さんと対談した際に、インベさんがおっしゃっていたことが印象的でした。

《無差別殺傷事件が起きたときに『自分もこうなるかもしれない』と思う人が増えているのかもしれません。追い詰められたとき、おそらく大多数の人は自殺に向かうけれども、『自殺するくらいなら』と他殺に向かう人もいる」「動機としては同じで、それは自分たちともつながっているように感じられるのではないか、と。事件を起こす犯人を自分と遠く離れた異物とは感じず、人が人を殺すことをある種理解できてしまう部分がある》(『中央公論』2022年12月号)

それを踏まえると、「ひとりで死ね」という言葉は安易な自己責任論だと思っていましたが、犯行への共感を何とか断ち切ろうとする、切羽詰まった場所で発せられる言葉としても解釈出来るなと。もちろん、その言葉は自分自身を一層追い込んでいくわけですが。

かといって、凶悪事件を連鎖させるわけにはいかない。

「ひとりで死ね」でも「これはテロではない」でもない、事件に真摯に向かいあった上での別の言葉が求められているのだと思います。

#1 山上徹也が本当に殺したかったものはこちら

取材・文/おぐらりゅうじ サムネイル写真/共同通信