時代のダークヒーロー
『ジョーカー』の約10年前、2008年に公開されたクリストファー・ノーラン監督作品『ダークナイト』で故=ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、劇中、自身がジョーカーとなった経緯を何度か語るんですが、そのストーリーが毎回違う。ジョーカーは犯罪心理学のアプローチではそのコアに迫れない、超越的な悪だというわけです。
京王線刺傷事件の被告人はそのような『ダークナイト』のジョーカーに、いわゆる中二病的に憧れていたようなところがあったのではないか。しかし、事件直後に出回った動画を見ると、被告人はひとり車両に残り、冷静な振りをしてタバコを吹かしていますが、手が震えていることがわかる。
同じジョーカーでもヒース・レジャーではなく、『ジョーカー』のアーサー側の人間だったと思いますが、自分自身を客観的に見ることはできなかったのでしょう。その自覚のなさに、前編でも語ったような、敵が見えない、現代的なテロリズムに近いものを感じました。
一方、安倍元首相銃撃事件の容疑者である山上徹也はTwitterで、こうツイートしていました。
《原作やダークナイトの純粋な『悪』というジョーカーから考えるとアーサーはジョーカーではない、というのはあり得る。彼はジョーカーに扮した後でも、自分ではなく社会を断罪しながら目に浮かぶ涙を抑えられない。悪の権化としては余りにも、余りにも人間的だ》
山上は明らかに『ジョーカー』のジョーカーに感情移入していました。『ダークナイト』との比較も的確です。この評に思わず賛同してしまうひとは少なくないのではないでしょうか。
凶悪事件は、理解できないもの、どうしようもないものとして片付けられがちですが、その背景に自分と地続きである何かを感じ取ってしまった場合、どうすればいいのか。