「学校」「家族」と形容される職場
さぼうるで働いて16年になる伊藤さんだが、後継者に直接指名されたことはない。しかし、子どもがいない鈴木さんからは後継ぎだと認識されていたようだ。
「マスターは『智恵さんがいるから伊藤くんもやれるんじゃない』とよく行く飲み屋さんでは言っていたらしい(笑)。夫婦でさぼうるで働いていたのは、後にも先にも自分たちだけですし」
伊藤さんがさぼうるでアルバイトを始めたのは大学時代。ナポリタンを食べて感銘を受け、このナポリタンを作りたい、とその場で店員にアルバイト希望を申し入れたそうだ。
「そのときはマスターが銭湯に行っていると言われて、それなら待ちますと。しばらく待っていたらサンダル履きに桶を持ったマスターが『君かい?』なんて言いながら現れました」
「僕はキッチン希望でしたがホールの人数が足りていなかったみたいで、相当悩んだらしいんです。結局、ナポリタンもそのうち作らせてやるからまずはホールからと丸め込まれて(笑)」
接客経験もなく、バイトを始めて1、2カ月は毎日やめようと思っていた。だが、今日やめると言おう、明日言おう、と思っているうちに楽しくなってしまったそうだ。
「一緒に働いていた先輩や仲間が、厳しいけれど優しくて。そういう経験が初めてだったから、ここまで来てしまった気がしますね。さぼうるは学校みたいなものだってみんなよく言っていました。スタッフがみんなマスターとお店に愛着があって、チームワークもよくて、本当に学校みたいでした。土地柄いろんなお客さんとお話することも勉強になりました」
やがて同僚だった智恵さんと結婚し、社員になったのが12年前。学校のようだったさぼうるで出会ってパートナーとなったスタッフは多い。現在、伊勢志摩でサンパチ珈琲焙煎所を経営するオーナー夫妻もふたりとも、伊藤さんがさぼうるで世話になった先輩だ。
「お手洗いの掃除から教えてもらった先輩ですね。当時は付き合っているとは知らなかったんですが(笑)。地方でお店を出されたり、作家さんになった方もいますし、さぼうるDNAが地方に散らばっていっています」
かつて働いた“卒業生”たちは、子どもができると子ども好きのマスターに見せに来ていた。伊藤さん夫妻の子どもたちもマスターに可愛がられ、家族同然に付き合っていたそうだ。
高齢のマスターの不在が多くなってからは自然と店長と呼ばれ出した伊藤さんだが、後継になると自覚したのはここ2、3年のことだった。
「嫌でしたよ、もとを正せばキッチン志望ですし(笑)。でも俺がやらないとこの大事な場所がなくなってしまうんだなと」
お客にとってそうであるのと同様、働く側にとっても大事な場所であるさぼうる。遠く移住した元スタッフがふと帰れる、本当に学校のような場所なのだ。続けてほしいというOB・OGからの声も多い。
「どこから出ているのかわからないけど、ここにしかない空気があります。誰もいない開店前の店内とか、本当にいいもんです。これからいらしてくださるお客さんや将来のスタッフにも、同じ空気を味わっていただきたい」