性の否定は、必ずしも「正しさ」に繋がるわけではない

――生き仏さまになると「性欲」から解放されるのでしょうか?

(ライター・)山田さんは、「性欲」をどのように定義なさいますか。

――う~ん。自分で質問しておいて、めちゃくちゃ難しいですね。性欲……頭を混乱させるというか。もっと大事なことがあるのに、相手が発するセクシャルな魅力だったり、自分の欲望に抗えずに間違った判断を下してしまったときに、「あぁ、また性欲に流されちまったなあ」とか、思ってしまうのですが。

本質を見抜けずに「誤った判断を下してしまう」という意味では、性欲に限らず、108の煩悩はすべて似たような結果をもたらすのかもしれません。「欲」とは、つまり「執着」でしょう。
山田さんは今、ことさらに「性欲」とおっしゃいます。けれど、性を否定することが、必ずしも「正しさ」に繋がるわけではないと思うのです。執着としての性欲と、ほがらかで誠実な性への向き合い方は、まったく違うものではありませんか。

――圓道阿闍梨は、「性」への眼差しそのものは否定なさらないのですか。

私の大師匠である故・光永澄道阿闍梨は、生涯で2度の得度をなさいました。1度目の得度で「良澄」の名を得た大師匠は女性と交際し、さらにその女性に自ら背を向けたことがあったそうです。その後、再得度して「澄道」となり、千日回峰行を満行なさった大師匠は、かつての振舞いについて喝破しました。「私は仏道のために恋を捨てたのではなかった。ただ覚悟がなく、だらしなかっただけだ」と。

つまり、もし、あのときに覚悟があり、誠実であれば、大師匠は結婚して、社会生活を営んでいたかもしれなかった。それもまた「正しい」ということです。

日本仏教は、恋を否定しておりません。山田さんも執着を捨てて、肚を据え、覚悟を決めたらよろしいのです。そうした性への向き合い方は、決して否定されるようなものではございません。