全人口の半分が参加した一大プロジェクト
東大寺の大仏造像が開始されたのは天平17年(745年)、完成したのは天平勝宝4年(752年)のことでした。7年に及んだ大仏づくりは、日本の各地から素材となる銅を集め、大仏殿をつくるために山を削ることから始まりました。まさに国をあげての一大プロジェクトです。
大仏づくりに関わった人の数は、述べ260万人とも言われます。当時の人口は500万人と推定されていますので、全人口のおよそ半分にも及ぶ人がこの事業に携わったことになります。
それにしても、これだけの人をどうやって集めたのか? そのカギを握る人物が行基(ぎょうき)でした。聖武天皇はより多くの人々から協力を仰ぐため、当時カリスマ僧侶としてその名を知られていた行基を大仏造立に関わる費用集めの責任者に任命したのです。
各地で井戸や橋づくりを指導しながら政府の禁を破って民衆に仏教を説いていた行基は、聖武天皇にとっては目の敵でした。しかし、国家をあげての大事業を民衆に手助けしてもらうためには、行基のカリスマ性がどうしても必要だったのです。
大仏づくりは、竹や木でつくった骨組みの周囲に粘土を塗り込んだ土台をもとにして、下の部分から徐々につくられました。土台の上に蝋、その上に土を塗って、土台と土のあいだに溶かした銅を流し込みます。すると蝋が溶けた部分に銅が入りますので、その銅が冷めたら土をどかすと大仏のでき上がりです。
といっても、大仏の高さは約15メートルですから、何段階にも分けて下から銅を積みあげていかなければなりません。この大プロジェクトを担ったのは国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)です。この人物は『続日本紀』によると、白村江の戦の際、日本に渡ってきた百済官僚の孫であることが分かっています。当時、優れた技術力をもった者は渡来系の技術者だったようです。
大量の銅を運ぶのも、高温で銅を溶かして大仏の型に流し込むのも、すべて手作業ですから、途中大きな事故もあり、大勢の作業員が命を落としたと伝わっています。
国を鎮静化させ、人心を落ち着かせる大仏を造像する陰で、こうした悲劇も起きたのです。