人はいかに情熱を注ぐか。その量こそが生きた証

1961年に日本テレビに入局してプロレス中継に尽力した原 章氏は、「全日本プロレス中継」が終了した翌年の2001年6月に常務へ昇進、2005年6月からは福岡放送の社長に就任した。2011年に同局の会長となり、翌年には長年の放送界への功績をたたえられ「旭日中綬章」を叙勲した。そして2015年6月に福岡放送の会長を退任した。企業人として出世し放送人としてこれ以上にない栄誉を受けた道のりをこう評した。

「私は人事局長もやりました。責任の重い職務ですが、組織が任命した人材ならば誰でもつつがなく職責を果たすことができるでしょう。系列局の経営者も然りです。でも、私の会社員人生の中で多分、他の人では務まらない、私でなければできなかったと思うことがあります。

ジャイアント馬場さんに独立を促し、一緒に全日本プロレスを設立したこと、『全日本プロレス中継』というプロレス番組を再構築したことです。

これだけは他の人ではできない仕事をやり遂げたという自負があります。そういう意味では馬場さんと2人で一緒に苦楽を共にしたあの時代は、私のテレビマン人生にとって一番の大仕事でした」

全日本プロレス中継は原 章にとって青春の輝きだった。原の言葉は人にとって仕事の意味、
価値を考えさせる響きがあった。人はいかに情熱を注ぐか。その量こそが生きた証なのだろう。そして原は恩人への敬意を忘れない人だった。それは「全日本プロレス中継」の最終回(2000年6月21日放送)について話を聞いていた時だった。

「全日本プロレスを作った小林與三次会長が、中継が終わる前の1999年12月30日にお亡くなりになりました。小林会長は中継が終わることを知らないでお亡くなりになったんです。全日本プロレスは正力松太郎さんの遺訓を受けて小林会長の情熱があったから生まれた団体です。実質的には小林会長が作ったんです。その全日本プロレスの中継が続いている間にお亡くなりになったことは誠に僭越ながら良かったことだったと思っています。それは今でも本当にそう思っています」