あややの名付け親! 

――飯田さんは松浦亜弥さんの愛称である「あやや」の名づけ親でもありますが、どのようにしてアイディアが浮かんでくるのですか。

すごくダジャレが好きでよく閃くんです(笑)。根が天然なところがあるのでつい出ちゃうんですよね(笑)。当時は周りから”ツッコまれてもいいや“と思っていたので、怖いもの知らずで何でもポンポン言っていましたね。そうしたら意外と周りからウケが良くて(笑)。

――でもいまや『あやや』も大勢の方に親しまれているアイコン的な愛称ですよね。

当時はこんなに世間に定着する呼び名になるとは全く思ってもみなかったですね。多分、あややの名づけのシーンも、番組(注:『MUSIX!』テレビ東京)ではオンエアもしていないんじゃないですかね…。あややという呼び方が世間に広まってから、“実は名づけは飯田だったんです”みたいな感じで後日放送されたと記憶しています。

――モーニング娘。以外にも、『ハロー! プロジェクト』にはBerryz工房など若手グループも誕生しました。新グループが出てきた時はどういう気持ちでしたか?

グループ編成が変わることなどにも耐性もついていたので、新しいグループがデビューした時も、みんな頑張ってほしいと思っていました。どんどん『ハロー! プロジェクト』も大所帯になって、活動の枠が広がっていきましたね。

――『ハロコン』と呼ばれる、ハロプロ所属のグループが揃うコンサートは、通常夏と冬と年二回開催されています。2002年の冬公演(『Hello! Project 2002 〜今年もすごいぞ!〜は、7都市28公演という大規模な数のコンサートをされています。一日に3回公演もある日もあったそうですが…。

最初は2組しか出ていなかったハロコンが、どんどんグループも増えて公演数も増えていって、かなりハードになっていきました。特に年末年始が凄まじくて、テレビ局をハシゴしていました。

――過密スケジュール?

当時は『レコード大賞』も大みそかに放送されていたので、レコード大賞の会場に行って、ロケバスで次の衣装に着替えて、『紅白歌合戦』のステージに移動して…みたいな。でも『COUNT DOWN TV』もあるぞみたいな(笑)。

――体調は崩されたりしなかったのでしょうか。

振り返ると、よくできていたなと思いますね。夏の野外コンサートではメンバーが熱中症で、ステージ上で倒れてしまったこともありましたね。私も体調不良の時がありましたが、ファンの方が時間を作って観に来てくださるので絶対にステージに穴を開けるわけにはいかないと思っていました。1公演目と2公演目の合間に点滴を打ってもらったこともありました。
でも点滴も全部打っていると間に合わないので、途中で止めて“もう、出なきゃならないので! “と言ってそのままステージに出たこともありましたね。今はもう、そういう体調を無視して活動する時代ではないので、現役メンバーには心身ともに健康を保ちつつ活動してもらいたいです。


後編「00年台初頭のバラエティの寵児、モーニング娘。飯田圭織」はこちらから
前編「16歳で歌ったモーニングコーヒー」はこちらから



取材・文/池守りぜね  撮影/小谷信介