「最低な職業やな」と思いながらコーチになった

佐々木朗希、大谷翔平らを指導した名コーチの理想は「存在感のない指導者」_01
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吉井理人は、現役時代、今はなき近鉄で野球人生をスタートさせた。

1983年、和歌山・箕島高のエースとして夏の甲子園で活躍したあと、同年のドラフト2位で入団。プロ2年目には一軍初登板を果たし、4年目に初勝利を挙げるのだが、その当時、若かりしころから、「コーチは選手のためになっていない。プレイの邪魔になっている」と感じていた。

「僕は結果的にモチベーション高くコーチをしてましたけど、はじめは、『最低な職業やな』と思いながらコーチになったんです(笑)。なぜかというと、自分が選手だったときのコーチの存在がすごく嫌だったから。

現役を終わって、野球に携わる仕事がほかになかったこともあって、とりあえずやってみよう、という感じで引き受けたんですね。だから、そのときのモチベーションはめっちゃ低かったですし、はじめはもう、どちらかといえば仕方なしにやってたんです」

引退後に日本ハムの投手コーチに就任したとき、はじめに球団から要請があったのではなかった。エージェントが各球団に売り込んだ結果、日本ハムから連絡が入った。まして、吉井本人の意向でエージェントが動いたわけではなかったから、「とりあえず」という感覚になるのも仕方なかっただろう。

秋季キャンプからチームに合流し、コーチとして初仕事を終えたばかりの吉井に、当時、話を聞く機会があった。コーチの存在が嫌だった理由は、その時点で語られていた。

「このままでは、自分が選手のときに『へぼコーチ』と思ってた人のようになってしまう可能性があります。〝へぼ〟って言い方は悪いですけど、要は、経験でものを言う人。『オレはこうやったからおまえもこうやれ。絶対こっちのほうがいいから』とは言うものの、なんでやらないといけないのか、納得のいく説明をしてくれない。それも頭ごなしに言われるから腹が立つんです」