糟糠の妻を尊重し続けた賢い頼朝
やがて頼朝は鎌倉に政権を確立して、政子は彼の創業をしっかりと支えます。頼朝も、愛人の家をぶっ壊されたりはしますが、政子のことを尊重する姿勢は一貫して変わらなかった。ただ、そこにも頼朝の打算はあったと思います。
平清盛は権力を得て、あまりにも朝廷と深い関係を持ってしまい、武士のリーダーとしてのレゾンデートルを失ってしまった。頼朝は、その姿を見て「自分は京の魔力に囚われてはいけない」と感じたことでしょう。だから頼朝は、糟糠の妻を決して捨てず大事にした。そうすることで鎌倉に集う武士たちに対して「自分は政子と家庭を築き、関東に根づいて生きていく」とアピールしたわけです。
もし逆に頼朝が政子を捨て、京都のお姫さまを迎えたり、京都の文物にあまりにも深くかぶれてしまったら、どうなるか。それを実際にやってしまったのが彼の息子、三代将軍・実朝(さねとも)で、その結果として「こんな人はもう要らない」と殺されてしまった。その事実を考えると、頼朝は非常に先の見える人だったといえます。
ただ打算だけではなく、やはり感謝の気持ちだってあったことでしょう。頼朝は流人でした。婚活対象としては、魅力ゼロ。収入のないニートも同然です。そんな自分を選んでくれた政子に対して感謝の気持ちを、終生忘れなかったんだと思います。
政子も、彼との関係を公私ともに大事に大事に生きた。しかし悲しいことになんとも微妙なのが、頼朝亡き後、政争の中で息子の頼家(よりいえ)と実朝を相次いで暗殺され、二人とも失ってしまった彼女の人生への評価です。