ただ生きているだけの男と生きていたくない女
『少年のアビス』(峰浪りょう)はふたりの男女の出会いから物語がはじまる。主人公・黒瀬令児と憧れのアイドル・青江ナギとの偶然の出会いだ。
その頃の令児は完全に行き詰まっていた。高校を卒業すれば、家族のために働くことになっている。生まれた時から人生は決められているのだ。かといってやりたいこともない。当然この“何もない町”から出ていくことはできない。そんな令児に、町に来たばかりだというナギは町の案内を頼む。最初は緊張気味だった令児だが、ふと、どうにもならない自分の境遇を語る。
彼女は絶対この町からいなくなる人だったからだ。
町を歩いていたふたりは川にたどり着く。その川の上流には、恋人たちが心中したという言い伝えのある「情死ヶ淵」があったという。そこでナギはこともなげに言う。
「羨ましい」「だって一番幸せな死に方だから」そして続けた。
私たちも今から心中しようか
令児はとまどいながら「何を言っているのか……」と返すとナギはさらに続ける。
だって令児くんの人生
この先絶対つまんないだろーし
それは令児にとっては生まれて初めてかけられた優しい言葉。“自分に気づいてくれた”のはいきなり現れたナギだった。
令児は認知症の祖母、心を病み引きこもって暴れ続ける兄、そしてたったひとりで働き、家族を支える母と暮らしていた。さらに近所には町の有力者の息子で、自分をパシりに使う幼馴染がいて、そうした柵の中、生まれ育ったこの小さな町に縛られ続ける彼は、このまま“ただ”生きていく、そう思っていた。彼女に出会うまでは――。
令児はナギに誘われて彼女と肉体関係を持ち、情死ヶ淵で心中しようとする。彼は自分のなかの闇を吐き出すように、ありったけの自分の感情を彼女にぶつけた。そのあとナギに「なぜ死にたいのか」を尋ねた。
死にたい理由はないよ
ないの。生きてる理由が
自分を縛る町の外の人、輝いて見えていたアイドルがそうであるならば、もし自分がここではないどこかで生きたとしても「なにもない」だろう。そう悟った令児は、彼女の手を取り川へと足を踏み入れる。だが、町を巡回中だった高校の担任教師に止められてしまう。ナギは「また今度にしよっか」と言い残して去っていった。
ここまでが絶望の物語「少年のアビス」のプロローグだ。