母の判断が生死を分けた

以降、小規模空襲が何度かあり、5月24日の未明、ついに毒蝮さんが住む地域までB29が襲ってきた。夜中であるから親子3人自宅にいたが、消火活動の途中、父は大工としての仕事先の海軍技研へ行った。危なくなったら逃げるようにと母に何度も念押しし、恵比寿に向かったそうだ。その後、火勢が激しくなり、母は避難を決意する。

「引っ越し当初に、近所の人に教わった避難地の戸越公園とはまるで逆方向へぐんぐん歩いて行くんだ。(1923年の)関東大震災を生き延びたおふくろだから、風上の高台に逃げることが大切だとわかっていたんだね。戸越公園は戸越銀座に比べれば高いが地域全体では中腹。それに戸越銀座は風下だった」

「雨あられのごとく焼夷弾を落としたんだ」毒蝮三太夫が語り続ける9歳の戦争体験_3
地図を見ながら東京大空襲の経験を振り返った

大火災の風は激しく、まだ焼けていない家から瓦が吹き飛ぶのが見えたそうだ。その中で母は9歳の毒蝮さんの手を引き、可燃物がいきなり発火するような温度の熱風を正面から食らいながら歩き続けた。桐ケ谷駅近くの空き地まで逃げ、そこで一晩を明かしたそうだ。

「じゅうたん爆撃で戸越銀座はほとんど焼け野原だった。でも建物疎開で家を壊して火除け地をつくっていたから焼け残ったところもあって、境目があるんだね」

毒蝮さんの自宅も建物の強制疎開に遭い、住み慣れた荏原中延を離れて戸越銀座に移り住んだ先での空襲だ。毒蝮さんの母が慣れぬ土地で避難先を判断した機転が、紙一重で命を繋いだのだ。

「B29が520機の編隊で飛ぶさまは本当にすごかったよ。空が見えないくらいに飛んできて、雨あられのごとく焼夷弾を落としたんだ。低く飛んだ飛行機の操縦士の顔が見えて、笑いながら『あそこに落とせ』って言ってるようだったという人もいたね。それで日本の飛行機が飛んで行って体当りするのが見えるんだよ。地上から頑張れって手を叩いて応援した。でも体当たりした日本の飛行機が落っこっちゃうんだ、それでB29はなんともないんだよ」