今では東京大空襲の体験者は稀有

「俺が戦争のことを話してるのはリハビリだよ(笑)。それとちっぽけな正義感だな。このテーマでテレビやラジオにも呼ばれているし、学校で講演をする機会もあるよ。9歳だった俺は学童疎開に行かなかったから、東京大空襲に遭ったんだ。2人の兄は戦争に行って時間はかかったけれども無事に帰ってきた。戦争を経て、バラバラになった5人家族がまた全員で集まれた。そういう家族ってのは少ないんだよね。東京で空襲に遭って、そのことをしゃべれて、今現役で仕事をしてる。しかも、(メディアに出演しやすい)東京にいるってなると、本当に少なくなったんだなぁ」

自分が戦争の話を求められる理由について、感慨深げに語った毒蝮さん。民間人の戦争体験の中でも苛烈であった東京大空襲だが、東京では子どもたちを学童疎開させていたため若くして体験した人が少なく、必然的に当事者は少なくなっている。

「雨あられのごとく焼夷弾を落としたんだ」毒蝮三太夫が語り続ける9歳の戦争体験_2

「国民学校の先生に『学童疎開が決まった』と言われたんだが、おやじが『おまえはな、行かねぇんだ』『これまで通り、ここにいるってことだ』と言ったんだ。荏原中延駅(現・品川区)の近くに住んでいたから、友達が集団疎開に向かうのを家の前で見送ったよ。どうせ死ぬなら親子もろとも、とおやじは考えたんじゃないのかな」

東京への特に大きな空襲には、1945年3月10日に上野・浅草・深川などの下町地域を襲った「下町大空襲」と呼ばれるものと、同5月24日に目黒や品川、さらに東京駅や皇居なども含めた山の手地域を襲った「山の手大空襲」と呼ばれるものの2回がある。初の大規模空襲で10万人以上の死者が出た下町大空襲が主に「東京大空襲」として語られるが、家族で品川区(当時・荏原区)に住んでいた毒蝮さんが体験したのは後者だった。

「3月10日の空襲は桐ケ谷の空き地で見たよ。焼夷弾が落ちていく先の城東地区は真っ赤な光の塊に見えた。その日の空襲が初めて軍事施設などではなく庶民の町を標的にしたから、次は自分たちのところも同じように空襲されるんだと知ったんだ」