「俺たちは死んじゃうからいいけれど……」

毒蝮さんと母の2人は多くの死傷者を目撃しながら避難し、近くの親類宅に身を寄せたが、翌5月25日には皇居周辺や城南地域が焼夷弾の雨を受け、同24日に2人が難を逃れた桐ケ谷駅周辺も燃えてしまう。この2日間の空襲が山の手大空襲だ。

「520機の戦闘機が来て爆撃したというのは、3月の空襲より多いんだ。でも焼失面積や死者は少ないから、語られることは少ない。数字が大きいほうばかりが語られる。そうやって多勢に巻き取られるってのは良くないと、(戦争で)国粋主義や全体主義が間違いだったことから学んだはずだよな。俺は江戸っ子で、弱い者に肩入れするし世間様の裏をいくのが好きだから、多勢じゃない話を正しく語っていきたいし、聞いていきたいね」

「雨あられのごとく焼夷弾を落としたんだ」毒蝮三太夫が語り続ける9歳の戦争体験_4
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母の一瞬の判断をはじめ、偶然の積み重ねで命を繋いだといえる毒蝮さんの空襲体験。一つひとつの判断が、道を変えてしまう。

「焼夷弾の攻撃というのは(カーチス・)ルメイという米軍の参謀が指揮したものだ。『早く日本をやっつけろ』という命令があって、日本の家屋は木と紙でできているから爆弾よりも燃やしたほうがいいと開発したんだ。このルメイが佐藤栄作総理の時代に、日本を復興させたというんで表彰されて、当時怒った人がたくさんいた。そもそも日本の建物を焼失させた要因なんじゃないのかって。これは戦後、いかに日本がアメリカに左右されて生きてきたかという表れだと思う。被爆国なのに核兵器禁止条約に参加してないとかもね。その積み重ねが今、如実に出てきているだろう。本当に日本は独立しているのかってね」

毒蝮さんは、現在の情勢について危機感を語る。

「戦争を知ってる俺たちも、戦争はもう俺たちの時代には起こらないと思ってたわけ。戦後77年戦争放棄を保ってきてね。でも、ウクライナでああいうことが起きて、テレビに映って、地理的にも近いところで簡単に起こり得るじゃないかとわかった。その中で、内政にも異変が起きて、舵取りが難しいよ。外交をちゃんとやらなかったら日本は世界の孤児になってしまうよね。俺たちは死んじゃうからいいよ。でも、年寄りの話を聞いて、戦争は起こしてはいけないんだと知ってほしいよね」

インタビュー後編に続く

取材・文/宿無の翁
撮影/吉楽洋平