大地VS海という対決の構図

山本 第一楽章の冒頭で、著作権絡みの話が出てきますよね。それ自体はすごくワクワク読めたんですが、この先でこれ以上、専門的なお堅い話になったらどうしようと勝手に不安を感じていたんです。でも、橘が音楽教室へ潜入する最初の日に、浅葉というチェロ講師が出てくるシーンで、作品世界の色がガラッと変わったと感じました。浅葉は本当に魅力的なキャラクターですよね。

安壇 橘の視点になって書いていましたので、教室にどんな人が待っているのかは、私自身も分からなかったんです。橘と一緒に教室の中に入っていったら、めちゃくちゃフレンドリーな人が出てきちゃった、みたいな(笑)。お話をぐいぐい引っ張ってくれる、いいキャラクターになりました。

――橘は幼少期にある事件に遭遇し、そのトラウマから深海の悪夢をよく見るようになり、深刻な不眠症を患い他者を遠ざけるような人生を送っている。タイトルにも採用されている深海ザメのラブカの生態が、彼の人生のメタファーとなっています。

安壇 稲葉さんと最初の電話打ち合わせをした直後、たまたま摘んだ「おっとっと」が限定盤の深海シリーズで、その中にあったラブカという生物の名前が気に入りまして。それと同じタイミングで採用したのは、『羊たちの沈黙』でした。もともと映画は好きだったんですが、今回の企画のお話をいただく二、三日前に、たまたまトマス・ハリスの原作小説を読んでいたんですよ。実はその本を手に取ったお店は、山本さんが勤めてらっしゃる渋谷の大盛堂なんです。

山本 その話、同僚から聞きました(笑)。

安壇 『金木犀とメテオラ』が入口の棚で大きく展開されていると聞いて、どうしても見てみたくなったんです。山本さんにはご挨拶できなかったんですが、代わりに『羊たちの沈黙』と出逢えました(笑)。あの作品のヒロインであるクラリスとレクター博士の関係は、橘と浅葉の関係と相通ずるところがあります。主人公がトラウマを第三者に吐露することで、その人物との距離がぐっと近づいてしまうっていう。

――レッスンはマンツーマンですが、橘は浅葉クラスの他の生徒たちと飲み会で交流したり、発表会の演目について意見を交わしたりするようになる。チェロで繋がった関係が心地いいと感じられるのと比例して、橘の中の罪悪感が膨らんでいく展開が説得力抜群でした。

稲葉 前に安壇さんから伺って面白かったのは、浅葉であったり、音楽教室側の人たちの名前には、植物の名前が入っているんですよね? 対する著作権管理団体側の登場人物は、橘の上司の塩坪だったり同僚の湊や三船など、海関連の名前で。

安壇 植物というか、大地ですね。大地VS海という対決の構図でお話を考えていました。橘樹という大地の側にいるはずの人間は、なぜか海にいる。そして音楽教室のミカサは、豪華客船、という感じでイメージを膨らませました。音楽と海という要素からの飛躍で、西洋のセイレーン伝説をバックグラウンドでのモチーフにしてあります。これは本編にはまったく出てこない裏設定なのですが(笑)。

山本 そんな名付けの法則があったんですね!

思いっきりエンターテインメントに! 深海のイメージを散りばめた音楽小説_3
連載担当編集者・稲葉努