禁断のモデルチェンジ

バッティングで影響を受けた人は、ほぼいないと言っていいのではないだろうか。打ち方のベースは、大学生の頃に作り上げたものだ。ひたすら自分で練習するようになり、いろいろな打ち方を試してみて、結果が出る形がわかり始めた。大学のリーグ戦で数字を追い始めた頃、この打ち方だと、だいたいこれぐらい打てるという感覚をつかんだ。

数字だけを見ると、バッティングのキャリアハイと言えるのは2010年。全144試合に出場し、打率3割1厘、19本塁打、104打点の成績だった。

これは3番を打つ自分の力だけではなく、周りの影響も大きい。安打製造機のマット・マートンと平野恵一さんの1、2番。4番には金本知憲さんがいて、5番に新井貴浩さん、6番に城島健司さんと続いていく。

特定の誰かが活躍しないと勝てないチームではなく、責任も分散していたし、それぞれが確立した力を持っていた。前を打つ2人が常に塁にいて、自分がヒットを打てば打点になり、打てなくても後ろのバッターが返してくれるので、自分でなんとかしなければいけないという比重は低くなる。

それが2009年、2010年、2011年だった。1年間戦うなかで、打線の巡りや、自分の状態など、チームのバランスがマッチしていたことが、個人の打撃成績に表れたのだと、今となっては思う。

一番自分のなかでうまくいかなくなったのは、2016年のことだ。ちょうど監督が代わって、自分に求められる役割も大きく変わったシーズンだった。

春季キャンプから、引っ張って一・二塁間にゴロでヒットを打つ練習を徹底した。これは自分の今までの打撃スタイルとは大きく異なる形だった。

自分の特性としては体が開きやすいので、開いた状態から逆方向に打ってバランスを保つことを意識してきたのだが、チームの方針としては、「一塁・三塁という形を多く作るために、一・二塁間にヒットを打つようなバッティングをしてほしい。打順も1番から3番の間で考えている」ということだった。

試合に出るためにも、チームの意向を受け入れた。だが、開幕の打順は6番……。