「余白」と「贈与」とは
目的とか期限とか評価とか、そういうものを予め設定されていない時間や仲間や空間が子どもにとっての余白です。
大人は、子どものまわりにそういうものを置かない代わりに、知識であれ、技術であれ、道具であれ、お金であれ、時間であれ、伝手であれ、持て余しているものを置けばいい。それが贈与です。
見方を変えれば、余白とは、子ども自身の育とうとする力を無条件に信じることです。贈与とは、気づかぬうちに自分自身も受けていた恩を、同じようにさりげなく別の誰かに返したくなる人情の連鎖反応です。
贈与で満たされた余白の中にたゆたえてやりさえすれば、子どもたちは自らの力で育ちます。大人が育てるのではありません。育つのです。ただし贈与にもいろいろあります。
余白の中に置かれた贈与——つまり目的やら期限やら評価やらが設定されていない贈与——こそが、子どもたちの自ら育つ力を呼び覚まします。
余白に訪れた生き生きとした体験から学んで育った子どもたちは、大人になっても生活のなかに余白を残すことを忘れません。大人たちからの贈与を受けて育った子どもたちは、次世代への贈与を当たり前だと思う大人に育ちます。そうして社会は続いていきます。
いま世界に山積みのいわゆる“SDGs的社会課題”を解決するのに必要なのは、みんながいわゆる“教科書的な教養”をしっかりと身につけて“高度”で“複雑”な議論をできるようになることよりも、地域社会の中に少しずつでも余白と贈与を取り戻すことではないかと思います。
江戸時代末期に日本に滞在したイギリス公使のラザフォード・オールコックは、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。(中略)ここは子供の楽園だ」(『大君の都』岩波文庫、山口光朔訳)と記しています。
オールコックが目撃した「子供の楽園」であったころに時代を巻き戻すわけにはいきません。でも、そのころの子どもに対するおおらかな視点さえ大人が取り戻せれば、地域社会をつくり直すことは十分に可能なはずです。
文/おおたとしまさ













