酒井さんのエッセイとの出会い

酒井 私が『負け犬の遠吠え』を書いたのは二十年以上前でしたけど、今はもう結婚していない人のことを「負け犬」とは言えないですね。結婚していないことを「負け犬」なんて呼んだら怒られると思う。
石田 私、じつは最初に読んだ酒井さんの本が『負け犬の遠吠え』なんですよ。
酒井 ありがとうございます。何歳のときでしたか?
石田 自分では大きくなってから読んだつもりだったんですが、調べてみたら、あの本が刊行されたのは私が十二歳のときなんですよね。私が実際に読んだのは本が出た少しあと、十四歳のときでした。生意気なんですけど、十四歳でこれはおもしろいと膝を打ちました。
酒井 なぜ十四歳であの本を読もうと思ったんでしょう(笑)。
石田 当時から自分は結婚しないだろうとか、子どもを産まないだろうと思っていたんですよ。幸か不幸かそのとおりになっているんですけど。
酒井 十四歳のときから、結婚について考えていたんですか?
石田 なんとなく自分はしないだろうと思っていました。戸籍上の母とか妻は絶対に自分ではないと思って。
酒井 そうなんですね。しかし十四歳であの本を読んでる人なんていなかったんじゃないかな。きっと最年少ですよ。
石田 いえ、割とみんな読んでいました。周りでよく見かけました。あの本は確かに独身の人を「負け犬」って命名しましたけど、負けることは何もダメなことではないという意味が込められていたじゃないですか。当時の人はそういう含みというか、ニュアンスがわかっていたと思うんです。私は十四歳でしたけれど、この本は「負けている」という状況が意味していることを認識しつつも、負けているからといって何が悪いわけでもないということを言いたいんだろうなと受け取りました。ただ、今の人は「負け」=失礼と感じる人が多いといいますか、そういう渋いニュアンスが通じにくいのかもしれません。
酒井 すごい中学生です(笑)。実際、あの本はいろんな読まれ方をしました。「負けるが勝ち」って言いたいんでしょう? という感想もあったりして。負けは負けなんですよと伝えたつもりだったんですけど、なかなかわかってもらえませんでしたね。でも、ちゃんとわかってくれていた中学生がいたと知ってびっくりです。
石田 私が酒井さんの本でいちばん感銘を受けたのは『儒教と負け犬』です。酒井さんの本のなかでも硬派で社会学的な内容で、とてもおもしろかったです。酒井さんは儒教を重んじる中国と韓国に取材に行かれたんですよね。
酒井 はい。中国と韓国の負け犬の方々にインタビューをしてきました。
石田 あの本に書かれていたことは今でもよく覚えています。いわゆる儒教の国で子どもが生まれないのは、子どもを作ることへのプレッシャーが逆に強すぎるからだと書かれていて、なるほどそうだよな、と思いました。あの本の企画はご自身で出版社に提案されたんですか?
酒井 『負け犬の遠吠え』については世界中のメディアから取材が来まして、各国の記者の方にその国の負け犬事情を聞いてみると、とてもおもしろかったことから、スピンオフ企画を思いつきました。負け犬問題を抱えているのは、やはり東アジアの国々なんですよね。日本以外にも、韓国、台湾、中国とか。あと意外なことにカトリックの国、たとえば、イタリアやスペインも出生率が低かった。もしかしたら宗教的なプレッシャーが強いからかえって結婚をしたくない、子どもを産みたくないと思ってしまうのではないかという仮説を立てて、取材に行き、各国の負け犬の皆さんと親交を深めてきました。国は違っても何か通じるものがあった気がします。

エモーショナルではない文章を書くために

酒井 石田さんはエッセイやノンフィクションを書こうというお気持ちはないんですか?
石田 あまり想像できませんね。エッセイやノンフィクションはすごく観察力があって、酒井さんのようにフィールドワークをし、かつ人の話を中立的に聞ける人じゃないとできないと思います。私は人の話を聞くのが苦手なので。たまに「小説を書くにあたって綿密な取材をされたんですね」と聞かれることがあって、そのたびに思わず「ええ、そうです」とドヤ顔で答えそうになるんですが、取材をしたことがなくて。取材をすると、その対象を悪く書きづらいですし、そもそも私は誰かの話を聞いても自分の都合のいいように解釈してしまうので、ノンフィクション作家の方のように、書くべきことと書かないでおくべきことの仕分けのような作業はできないと思います。
酒井 でも、たとえば「世紀の善人」だったら、語り手が「サンゾウ」と呼ぶ、三國造船という会社について細かく設定されていますよね。造船会社のことをよく知らないと書けないと思いますけど。
石田 じつはあの会社にはモデルがありまして。今はもう無い会社なんですが、身近な業種の会社でした。
酒井 じゃあ近い世界だったんですね。
石田 そうですね。「世紀の善人」に関して言うと、なんだかエモーショナルな小説になってしまったなあと反省しております。酒井さんはどんなエッセイを書かれても絶対にエモーショナルにならないですよね。そこに私は憧れます。
酒井 エモーショナルじゃない?
石田 はい。エッセイって、やろうと思えばいくらでも感情をぶつけられるじゃないですか。でも酒井さんはそういう書き方をされない。どこまでも客観的といいますか、エッセイでありながら私情を最小限にしている印象を私は受けます。意識的にそうされているのですか?
酒井 若い頃はそういう文章を、いっぱい書いてましたよ。この仕事をはじめた頃は学生だったので、渋谷のセンター街を練り歩いてどうのこうの、みたいなことを。でももう長年文章を書き過ぎて、自分のことなどさらさら書きたくなくなっていますね。
 あと、私は何かのグループに所属していてもその中心にはいなくて、外と内のぎりぎりの場所から内側を見ているような立場なんですよね、いつも。
石田 『うまれることば、しぬことば』で自分は「補助席」に座っていると書かれてましたよね。
酒井 そうですね。そういう位置にいるので、自分のことはあまり出さず、見ているものを書きたいと思うんでしょうね。