イーロン・マスクと金鉱の王を結ぶ「漂流する価値」
――そのように濃縮された時代感覚が、三番目に書かれた「マンサ・ムーサ」(二〇二五年六月号掲載)にも感じ取れます。このタイトルを最初に目にした時、多くの人が「何のことだろう?」とまず検索したくなると思います。作中にも書かれていますが、中世マリ帝国の伝説的な王で、つい最近まで人類史上最高の富豪と言われていた人物なんですね。
上田 ちょっと前に「イーロン・マスクの資産総額が、人類の歴史上、あのマンサ・ムーサの富をついに七百年ぶりに塗り替えるかもしれない」というニュースを目にしたのが着想のきっかけです。今やスペースXが上場して、一時期は総資産が二百兆円を軽く超えましたから、歴史的な更新はとっくに現実のものになっていますけどね。
――現代の私たちが生きているのは、人類の歴史において実に「七百年ぶり」の凄まじい規模での富の偏在が起きている異常な時代なんですね。しかも、かつての王が有していたのは自国の土地から掘り出した「金」という実体のあるものだったのに対し、現代のイーロン・マスクのような大富豪たちの富は、株価という形のない数字の膨張によって生み出されています。この差異もまた、現代の「不確かさ」を際立たせています。
上田 凄い勢いで変化していて、この二、三年の間に起きたことにまったくアクチュアリティを感じなくなりました。ニュースの量も情報量も多すぎて、半年前の出来事すら誰も覚えていない。ベタな言い方をするとターニングポイントというか、そういう時代なんだと思うんですけどね。
――一種の集団的な健忘症にかかっているような社会です。この激動のターニングポイントにおいて、目の前を通り過ぎるイーロン・マスクのニュースにそのまま飛びつくのではなく、七百年前の金の王様の歴史を補助線として引くことで、現代という過剰な時代を徹底的に客観視する視点が上田さんですね。
上田 「生的同意」の話でも触れましたが、これが答えだよというのがない時代です。みんなが今、必死で求めている共通のものといったら、お金と承認くらいでしょう。宗教のような目に見えないものがあまり力を持たなくなった時代、あるいは家族からのこうしろという抑圧も減ってきている中で、お金を稼いでいる人が勝ちだという価値観が唯一の答えでしょうか。あるいは、ユーチューバーやティックトッカーのように、インプレッションを集めた人が勝ちだという価値観でしょうか。そのどちらも決して良いとは思えないよね、とずっと思っていました。そのことを、マンサ・ムーサという存在をフックにして描きたかったんだと思います。
――人生に求めるのがお金と承認というのは何ともさもしい話ですね。ただ、それはあくまで表面的なことで、潜在的に何か別のものを求めているような気もしますが。
上田 いや、それがわからない。わからなくて漂流しているのが私たちなんだと思います。ビットコインのことを書いたのも、その富を得たところで救いにはならない。世間で価値があるとされているものが、実はそうでもないんじゃないか、というのが僕のいつも思っていることで、小説でもついそれを書きたくなってしまうんです。そして、その違和感を入り口に書いていくと、お金であれ承認であれ、まだ求められている状態は、何も求めるものがなくなるよりもまだしもましなのではと思えてきます。
――「マンサ・ムーサ」の主人公は地味に個人的なルーティンを守りながら生きるFXトレーダーです。彼はかつて証券会社に勤務していた時代、熾烈なノルマを達成するために、自分の精神や身体を一種の「歯車」として機能させるよう自らルールを作り、人間性を削ぎ落としていった過去を持っています。これこそまさに、現代の資本主義経済の中で生き残るために、自らをシステムに最適化させていかざるを得ない現代人そのもののポートレートだと感じました。
上田 僕は新卒で就職しませんでしたが、もしも普通に就職をして、大企業のサラリーマンとして働いていたら、そのまま一生懸命働いたとしても結局うまくいかず、ということになっていたかもしれない。先ほど申し上げたように、そうだった場合を小説でシミュレーションしているということもあるのかもしれません。
――主人公と対極の位置にあるのが「俺たちの人生は安全すぎるから定期的に自分をリスクにさらす必要がある」と考える登山家であり予備校講師の木本です。
上田 客観的にはそうなんですよね。けれど、主観的にはそう思うのは難しい。今、僕は四十七歳なんですが、大学の同級生たちと飲むと、役職定年や企業年金の話になる。
――(笑)。でも、四十代後半になると、組織の中での自分の最終的な到達点が見えてきてしまうのかもしれません。しかもこの日本の経済状況の先行きが見えない中で、老後の不安を感じるのもわかるような気がします。
上田 僕は全く違う生き方をしてきて、ベーシックインカム的な世の中に近づいたと仮想した時にあるべき精神性として、石でも磨くみたいに、ひたすら小説をハイペースで書くということを習慣化して、ビジネスも興味を持てるものにひたすら没頭しようとしてきました。なので彼らの実感は共有できないですが、普通に考えれば社内の切実なサバイバル問題です。誰もが知る一流企業で働いていたとしても、それが標準な状態であればそこからの後退は避けたいはずですからね。けれど、どうしても現代社会はどんな個人にも強烈にメタ視点を埋め込んでくる。
――「マンサ・ムーサ」は、かつての友人が残した遺品をめぐる物語として、ちょっといい話に着地するかと思いきや、そうはならない。やがて読者も「お前の人生は本当にそれでいいのか」という「毒」を浴びることになります。
上田 メタ視点が自身に問いかける毒ですね。短編集は三冊目ですが、今回が一番、毒の濃度が高い気がしますね。
――私たちが見ている世界、リアルな世界とは何かというのを突きつけられたような気がしました。単行本のタイトルが『ノー・ファンタジー』だから余計にそう思ったのかもしれませんが、自分が対峙している現実がとても寄る辺ないものに思えてきてしまうというか。
上田 僕が上京して大学に入った一九九八年は、まだバブルの影が少し残っていたので東京はどこか楽しそうな街でした。その明るさがだんだん消えていった。「トキシック・フライデー」に、東京からメロディーが消えてリズムだけが残った、と書きましたが、それは僕自身の実感でもありました。
今はもうそのリズムすらなくなり、どういうノリで楽しめばいいのか、どう生きていけばいいかという方針を決めることが難しい時代だと思います。
――「マンサ・ムーサ」の登場人物のように、お金の番人にかしずくように自分を変えていくしかないと思っている人が多いのかもしれません。「生的同意」における、生きていていいんだと自分をいかに肯定するのかという問題と、底流で繋がっているような気がします。
上田 今回、『ノー・ファンタジー』と銘打っておきながら、ファンタジーがないと生きていけないのは確かなんです。どうやって自分を慰め、自分を高ぶらせていくのかにはどうしてもファンタジーが必要です。そのことを僕自身が考えながらこの短編集を書いていたような気がします。














