秩序に回収されない「下品さ」、小説という一縷の希望
――「生的同意」の次に書かれたのが表題作「ノー・ファンタジー」(二〇二五年九月号掲載)です。これは掉尾を飾る「ソー・ファンタジー」と対になっているので、先にその二作の間に書かれた「もっと下品な男」(二〇二五年十二月号掲載)についてうかがえたらと思うのですが、これは昨年刊行された短編集『関係のないこと』に収録された「下品な男」とも繋がりがありますね。この“下品”という言葉には何を託されたのでしょうか。
上田 「上品なもの」というのは、往々にして社会的な体裁を取り繕ったものであり、「下品なもの」の中にこそ、人間の剥き出しの本性が宿っている。シンプルに区分けするとそうなります。下品さだけでも上品さだけでもバランスが悪いと思うのですが、今の世の中は、あまりにもお行儀の良い「上品さ」に傾きすぎていると感じます。
たとえば、現代のSNS空間を観察していて非常に奇妙に思うのは、殺人事件と日常のマナー違反が、同じ熱量、同じ怒りのテンションで告発され、糾弾されていることです。
――確かにそうですね。他人のデリカシーのない行動や飲食店での軽率な悪ふざけが、重大犯罪と同等か、時にはそれ以上の社会悪として徹底的に叩き潰される光景を目にします。
上田 「そんなわけないだろ」と言いたくなりますよね。殺人という絶対的な一線を越える行為と、ペーパーナプキンを多めに持ち帰ったことに対する怒りが同列で語られるのは尋常ではありません。お行儀の良さという均一な正しさが世界を覆い尽くした結果、人々から寛容さや物事のグラデーションを理解する知性が失われてしまったように感じます。
――「もっと下品な男」には破綻が確定した会社を買い取ってくれる買取屋が登場します。主人公はコンサルタントで、上品なガラスの城のような最先端の家に住む買取屋を訪ねる。そして年齢も性別もわからない謎の存在である「彼人」との奇妙な対話が展開しますが、そこでシェイクスピアの『ベニスの商人』のシャイロックの「肉1ポンド」のエピソードが引用されます。上田さんにとって、やはりシェイクスピアというのは重要な存在なのでしょうか。
上田 実は当初、「もっと下品な男」ではシェイクスピアについて触れようとすらもしてなかったんですよ。自動筆記というか、イメージだけがあって勢いよく書き進めていった時に出てきたという感じですね。
ただ、シェイクスピアが無類に好きだということはたしかです。あの独特の「コスモ(宇宙)観」。シェイクスピアの劇世界は、一対一の個人的な人間関係から見ると、突飛でおかしなことばかりが起きるんですが、宇宙的な視点から眺めてみると正しい。その二重の構造が、僕にとって魅力的なんです。
――人間同士のミクロな狂気や過ちが、遠く宇宙から見ると調和しているということですか。
上田 しかも宇宙から見てるほうが正とされている。正とされているんですが、時に間違いが生じて人が死ぬ。その構造が僕には面白い。作中にも書きましたが、『ベニスの商人』で裁判官が「アントニオの肉を1ポンド得る権利がシャイロックにあることを認めるが、それを得るのに、血液を一滴たりとも失わせてはならない」というのはまったくおかしな話なんですよ。でも別軸で見ると正しい。その別軸から見た世界であり、作者のシェイクスピアから見た世界でもある。
――二つの世界がともにあり、果てしないギャップがあるというのは、まさに上田さんの小説世界――人類史的な視点と、現代人の日常生活とが同居している――と呼応していますよね。では、いよいよ表題作「ノー・ファンタジー」と、それと対になる作品「ソー・ファンタジー」(二〇二六年三月号掲載)についてうかがいます。
上田 そろそろ短編集としてまとめることを考え始めた時、これらの作品群を貫く共通の「横串」として浮かび上がってきたのが、先ほどもお話しした、ファンタジーが信じられない時代の実存でした。そこで、横串となるテーマに正面から向き合ってみようと書いたのが、表題作の「ノー・ファンタジー」です。現代社会において、ファンタジーというものが完全に機能不全に陥っている。その現実を象徴するような作品を書こうという目論みでした。
――「ノー・ファンタジー」は、空港という、旅の始まりと終わりが交差する人工空間から始まります。主人公はそこである女性を待っていて、行き交う人々のなか、彼だけがどこへ向かうでもなくその場に留まっているという状況が象徴的でした。
上田 空港というのは、本来すべての人間が強烈な「目的地」を持って移動する場所ですよね。だからこそ、特に用事もないのにそこをぼーっと歩いていると、周囲の人々が全員、目に見えない矢印を掲げて歩いているかのような奇妙な錯覚に囚われることがあります。冒頭の空港のシーンは、僕自身のそんな身体的な実感から生まれています。
――主人公が定期的に逢瀬を重ねている同級生のシングルマザーにとって、日常は単調で義務的な主旋律で満たされている。しかし、海外出張を終えて成田空港で主人公と落ち合いホテルで過ごす時間は、主旋律から逸脱した、不規則な心臓のビートのような別の時間を生きています。それを彼女は「千葉モード」と呼んでいますが、この「逸脱したいけれど、絶対に日常のテリトリーの中では逸脱できない」という二重生活のリアリティは非常に切実です。
上田 人間が退屈で過酷な日常を維持していくためには、何かしらのファンタジーや、生を突き動かすメロディーが必要です。しかし、それを心から信じきることができないというのが現代の僕たちの実存なんじゃないかと思います。
であれば、その日常から逸脱した時に、なにがしかの癒しがないとやっていけないのは当然で、それがファンタジーを即物的なものにしてしまっている。夢がないからこそ、逆説的にファンタジーを支えているという構造があると思うんですね。
この「ノー・ファンタジー」の諦念と対をなすのが、最後に置いた「ソー・ファンタジー」です。「ノー・ファンタジー」と「ソー・ファンタジー」は合わせ鏡のようでもあり、パズルのようでもあるという関係性が、この短編集の大きな駆動力の一つになるのではないか、とセットで考えました。
――「不倫」や「秘密の恋」がファンタジーとして機能していた時代もありました。しかし現代は、SNSの監視社会化と過剰な道徳観によって、不倫に対する社会的制裁が異常なほど過酷になっています。この「ノー・ファンタジー」の男女が結ぶ、日常を寸断した「千葉モード」という限定的な交際は、きわめて細々とした、生存のための最小限のファンタジーであるように見えます。
上田 社会の解像度が上がりすぎてしまったんでしょうね。見えなくていいはずの裏側の構造や、他人の醜い動機までがすべて可視化されるようになってしまった。昔なら「この人、ちょっと怪しいけれど好きかもしれない」というロマンチックな曖昧さを維持できたはずの人間関係が、今やネットやSNSを通じてすべて言語化され、パターン化され、一対一の特別なストーリーではないことが露呈してしまう。だから、誰も物語のなかにいま一つ浸り切ることができない。「ただの搾取だ」「ただの現実逃避だ」と、賢く冷めてしまう。
――そんなファンタジーなき袋小路の時代において、虚構であるはずの「小説」という物語を書き続けることは、作家にとってきわめて困難な、難儀な作業ではないですか。
上田 いえ、それこそが小説家の仕事なのだと思っています。「ソー・ファンタジー」の主人公は小説家で、僕とはキャラクターが違いますが、小説家という点では共通する部分もあります。それは、すべてが高解像度でつまびらかになってしまった世界で、それでもなお、ファンタジーをつくることができるのが文学ではないか――と考えている点です。経済性や道徳性から離れ、今必要なファンタジーを作る試み。そこに一縷の希望があると思いますね。
――「ソー・ファンタジー」の主人公である小説家は、毎週水曜日だけ幼馴染の母子と3人で過ごすのがルーティンになっていますが、やがてその子どもの血の繋がらない父になることを願うようになります。この作品集を最後まで読み終えた時、どこか「ほの明るい希望」のようなものがじんわりと胸に残る感覚があったのは、上田さんのおっしゃる一縷の希望ゆえなのかもしれません。
上田 最後の作品には、絶対に希望を残したいといつからか思うようになりました。村上春樹さんの短編集『神の子どもたちはみな踊る』の最後が「蜂蜜パイ」で締め括られるように、読者が本を閉じた時に「読んでよかった」と思ってもらえるような救いを用意したい。昔は全然そんなことを思わなかったので、自分でも不思議なんですが。
――その象徴が、「ノー・ファンタジー(No Fantasy)」の“ノー”に点を打つと“ソー”になる、「ソー・ファンタジー(So Fantasy)」になるという、鮮やかな反転です。
上田 ネタバレになるので詳しくは言いませんが、「ノー・ファンタジー」と「ソー・ファンタジー」は同じ世界を描いているので、そのことに気づくと、読後感もまた変わるんじゃないかと思います。
――残酷でもあり、でも、生きるためには必要なことなのかもしれないと思ったり。
上田 怖い話なんですよね、実は(笑)。でも、その残酷な構造に気づいた後であっても、なおこの世界には美しさや肯定すべき光がある。そう信じられる小説になっていればいいなと思います。Taleにはもはや乗れない現代人がそれでも抱く、抱かねばならないFantasyとは何なのか、それをリアリズムから逸脱しない範囲で僕なりに突き詰めたつもりです。














