百年後を見据えた、小説という巨大な「オブジェ」
――さて、ここからは新刊『ノー・ファンタジー』についての話を踏まえながら、上田さんの創作の今までとこれからについて、少しお聞きしていきたいのですが。まず、今年十一月に長編小説『キュー』が舞台化されますね。上田さんと白井晃さんの共同脚本で、演出は白井さんが手がけられます。そもそも『キュー』が書かれたのは約九年前、二〇一七年から二〇一八年にかけてでした。それが今舞台化されるというのがすごく興味深いですね。当時はまだ生成AIや、それを可能にした大規模言語モデルの実用化は、一般人にとってSFの夢物語でした。しかし上田さんはその先にある「人間の意識の同質化」や「個の消失」をすでに予見していて、「肉の海」と名付けた。その概念自体はすでに二作目の中編「惑星」でも示されていますが、その後もたびたび登場し、『キュー』が一つの頂点になっています。
上田 「太陽」でデビューして以降、現実社会の外側、さらに外側、そのまた外側と小説で書く世界を拡張していった時に、一番外側を書こうと思ったのが『キュー』だったんです。外側外側と拡張していく中で、因果律さえ左右できるようになった場合の人間の在り方みたいなものを、念頭に置いて書いたものです。
――白井晃さんも、「九年前よりも、現在の方が格段に作品の解像度が高く、リアルに理解できる」と驚かれていたそうですね。
上田 テキストは一行も変わらないのにそうなるということは、社会全体の視界が僕の当時見ていた視界に近づいてきていることだと思います。、だから、作品をより高解像度で読める。
当時、僕が『太陽・惑星』や『キュー』で書いた「人間の同一性」や「個の溶解」といったテーマは、「そんな極端な未来があるわけない」と一蹴されていたと思います。あるいは単にSF的な、あくまで小説の中の出来事だと。けれど、SNSや生成AIの急速な普及を経た今となっては、誰もが「これは間違いなく自分たちの現実だ」と腹落ちするようになってきた。
――上田さんはITという最先端の技術領域の要素を、純文学のコードに組み込んだ先駆者といえると思いますが、ご自身としては「時代の先を予測して書こう」というような意図があるのでしょうか。
上田 いや、僕自身は「この先を書いてやろう」という意識はまったく持っていません。ただ、「いつか必ずこういう未来に到達するだろう」という直感する終着点から逆算して、現在のストーリーを構築しているだけなんです。その終着点も可変式であり、刻々と変わっていきます。
今、目の前にある風景だけを写生するように書く、瞬間最適の小説は美しいかもしれませんが、書いていて僕自身があまり面白くない。そうではなく、東京という都市や人類の意識が、百年後、あるいは千年後にどうなっているかというマクロなグランドデザインを描いた上で、「じゃあ、その手前にある現代はどう見えるか」と逆算して書く。その方が、圧倒的にダイナミックで強固な物語が作れますから。
――なるほど。今を見て今を書くのではなく、決定された未来から現代を逆算する。
上田 僕がデビューする前の二〇一二年前後、すでに小説として書くべきテーマや技法は、すべて先達によってやり尽くされてしまったのではないか、という強い閉塞感がありました。一人称の語りのトリックも、メタフィクションも、あらかた開拓されてしまったな、と。だとしたら、もう一度小説という表現を駆動させるための突破口は、未来からの逆算という時間軸のねじれを導入するべきではないか、という直感があったんです。
――上田さんのコンセプチュアルな考え方は、現代アートと重なりますね。提示された作品が、単なる読物としての面白さを超えて、社会に対する批評的な「オブジェ(立体造形物)」として機能している。
上田 実は『キュー』以降、リアリズム小説を突き詰めていく過程で、より構えの大きな作品を要請するように思えてきました。その状態でもっと長いものを書きたいと思って書いたのが、毎日新聞で連載していた『浮動』という長編です。今、単行本化に向けて改稿しているところで、『キュー』以降の到達点になるんじゃないかという確信があるんですが、原稿用紙で1200枚あります。
――鈍器本、確定ですね。
上田 おっしゃるように、巨大なオブジェのような小説になりそうです。でも、そういった大規模な不条理な物体を世の中にドスンと放り出して、十数年後に「ああ、あの本が言っていたのはこういうことだったのか」と、じわじわ理解される。そういうスパンで世界と対話できる自由が許されているのが、純文学というフィールド、小説というメディアの面白さだと思いますね。
「すばる」2026年9月号転載














