絵画が教える教訓
①早まってはいけない
②人の話を信じてはいけない

──旅の思わぬ「副産物」を描いた絵も楽しかったです。たとえばいつの世も、旅に〝出会い〟はつきもの。

『バッカスとアリアドネ』(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)ですね。ブドウと酒と陶酔の神バッカス(=ディオニュソス)は、旅の途中、電撃的にひとめぼれをする。その相手がアリアドネで、二人は幸せな夫婦になります。実はアリアドネは、駆け落ちした相手に捨てられ、死のうとしていたところだったんです。そこへ、前の相手よりずっといい男性が現れた。早まってはいけません、という教訓。

──今に続く副産物も生まれていますね。世界初のパックツアー(移動・宿泊・観光などを旅行会社がセットにして販売するパッケージツアー)が生まれた由来、勉強になりました。こういうところにビジネスチャンスがあるのかと。

 面白いですよね。イギリスの伝道師が始めたんですよ。産業革命後、一八三〇年代から四〇年代にかけてのイギリスは、アルコール問題に悩まされていたんです。つらい肉体労働と低賃金に苦しむ人たちが安酒に逃げ込んでいたからですね。なんとかしたいと考えた伝道師の発想がユニークで、彼らがなぜ酒に溺れるのかではなく、なぜ自分は生活がつらくても酒に溺れないかと考えた。それは、伝道の仕事でいろんな土地に旅をするのが楽しいからだろうと。そこで彼は、酒よりも旅のほうが面白いことを体験してもらうために、今でいうパックツアーを安い値段でつくって参加者を募るんです。汽車に乗ってみたいと思っていた労働者たちが五百人も集まったというので、この本に載せた絵(『鉄道』より〈9忘れがたい旅〉オノレ=ヴィクトラン・ドーミエ)のように三等車はすし詰め状態になったでしょうが、そういうドタバタも旅の楽しみでしょう。その後、彼が立ち上げたのが世界初の旅行会社といわれる「トーマス・クック社」です。

──絵画には本当にたくさんの情報が詰まっている。それがわかると絵画はもっと面白くなるし、世界の見方が更新される。そういうことを中野さんの本は教えてくれます。

『怖い絵』を出したときからいっていることですが、日本では、絵画はただ感じればいいと考えられがちでした。一方で絵画の説明となると、タッチや構図といった技術的な解説が多かった。一般の鑑賞者にとっては、そうした観点よりも、絵画の背景や意味を伝えたほうが面白いだろうと私は思ったのです。絵画には、歴史や時代、画家の意図などが描かれています。背景となる知識をもって絵画を観ると奥行きが生まれ、たくさんのことが読み解けるようになります。絵画の描かれた時代と今を比べて、変わった点、変わらない点に気づくことで、ものの見方が広がるとも思います。この新刊も、そうやって楽しんでいただけたら嬉しいですね。

──まだまだ紹介したい絵はありますか?

 もちろんあります。日本で意外と知られていない絵はたくさんありますし、絵って、突然発見されることもあるんです。面白い話があります。「怖い絵」展(二〇一七)で初来日した『レディ・ジェーン・グレイの処刑』(ポール・ドラローシュ)は、個人所蔵のため忘れられていた絵を、イギリスのナショナル・ギャラリーが買いとった。ところがテムズ河が氾濫したときに流されてしまった。といわれていたのですが、それを信じなかった学芸員が執念で探し続けて見つけ出したという歴史があります。まさしく名画に歴史ありで、彼の情熱のおかげで、私たちは目にすることができている。研究者は、自分の目で見て納得するまで、人の話を信じてはいけないということです。
 あるいはものすごく傷んでいる絵を修復してみたらレンブラントの絵だった、ということが何年かに一度くらい起きるので、絵画の世界は面白いですよ。私は歴史も好きなので、これからも絵画と歴史を書いていきたいと思っています。

旅から生まれた名画
中野 京子
旅から生まれた名画
2026/6/26
2,200円(税込)
224ページ
ISBN: 978-4087817805
なぜ「旅」は、かくも多くの名画を生んだのか。
「怖い絵」シリーズで知られる中野京子が、画家の視点が変わった〈運命の瞬間〉を、「旅」という切り口から読み解く。

もし、その一歩がなかったら、あの名画はこの世に存在しなかったかもしれない。
本書は、宗教画から近代絵画、異文化交流の痕跡までをたどりながら、旅が画家にもたらした変化と、その結晶としての名画の背景をひもとく一冊である。
旅とは単なる距離の移動ではなく、世界の見え方が更新される体験であり、心の揺らぎそのものだ。
中野京子が、旅する画家たちの光と影、希望と不安を、「時間」と「記憶」という視点から丹念にすくい上げていく。

【内容】
星に導かれ、遥かな旅へ〈東方の三博士〉。
肉体を離れ感情や記憶が辿るもう一つの旅 魂の奥に広がる世界へ〈心の旅〉。
空を渡る影に願いを託して 子供たちの祈りと衝動の行方〈子供の旅〉。
記憶の花が静かに開く 心を揺らす恋の調べ〈恋の旅〉。
祈りが重なる聖なる道 時を超えて響く信仰の声〈巡礼〉。
異国の絵画にひそむ和の気配 静寂の中で時を超える美〈日本製品の旅〉。

このほか、森の中、強いられた旅、冬の旅、船旅、巡業、遍歴の騎士たちなど、時代と地域を越える〈旅〉をテーマにした全20編を収録。
恋や信仰、孤独、そして文明へ――旅はやがて、絵画の世界そのものを変えていった。

【本書に登場する主な画家】
ティソ、リヴィエール、リッピンギル、ゴヤ、ブリューゲル、ティツィアーノ、カーガー、ホイッスラー、サージェント、ドガ、ランドシーア、ターナー、ヴァスネツォフ、モロー、そしてホッパー。
時代と地域を越えて描かれる名画の数々から、移動の先で芽生えた視点の変化と、その静かな余韻をたどる。

【こんな方におすすめ】
旅が好きな人に。
名画の見方を変えたい人に。
一枚の絵の奥にある「時間」と「記憶」を知りたいすべての人へ。
amazon 楽天ブックス 丸善ジュンク堂書店 セブンネット TOWER RECORDS 紀伊國屋書店 ヨドバシ・ドット・コム Honya Club HMV&BOOKS e-hon

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