夢は、最後には手放すもの
三浦 私も、とくに娘は、基本的に母親と仲が悪いもの……敵対し合わずとも多少は反目し合うものだと思っていたんですけど、最近は、反抗期のない子どもが増えていますよね。娘さんと仲のいい友人を見ていると、なんだか不思議な気持ちになります。
岩宮 もちろん生まれつき相性がいいということもあるでしょうが、自分の価値観は横に置いておいて母親にあわせていたほうがラクだからそうしている、という場合も多いと思います。その場合、四十を過ぎてから母親にふつふつと怒りがこみあげてきたりすることも。
三浦 遅まきの反抗期が。
岩宮 あるいは、自分にはなかった反抗期を迎えた我が子と向き合ったとき、必要以上に怒りが芽生えてしまう。自分は母親の気に入るように生きてきた、ということが思い起こされてしまうんですね。自分の人生を生きることができなかった後悔ややるせなさを抱えて、カウンセリングにいらっしゃるかたもおられます。もちろん、母親と一切反目することなく幸せに関係を築いたかたは、相談を必要としないから出会わないだけ、ということもありますが……。母親との関係を夫にスライドし、夫の価値観に身を委ねて生きて来られた方は、熟年になってから悩まれることもあります。
三浦 誰かの言うとおりに生きるって、確かにラクな部分はあるかもしれないけれど、でもやっぱり、苦しいんじゃないかと思ってしまいます。
岩宮 しをんさんのように、何か新しいものを生み出そうとするかたは、誰かの意向にあわせて生きることのほうが苦しいですよね。でも、新しいものを生み出す行為は、既存の安定を打ち壊すことでもあるので、そのおそろしさに比べたら窮屈さに耐えたほうがマシ、ということもあるんです。だから、喜久美のようなカリスマ性のある存在が家庭にいる場合、信じるか逃げるかのどちらかしかない。そしてこの小説がそうであったように、たいていその支配は母性によってなされますね。
三浦 うちは母親が自由にふるまい、父親は影を潜めている家庭でしたが、他のご家庭もそうなんですか。
岩宮 臨床の実感としては、日本で父性の強い家庭は少ないと思います。父親が一見、父性的権威のように見える場合でさえ、河合隼雄先生の言う「母性社会」の内側で与えられた役割にすぎないことがあります。母性による精神的な支配のほうが、ずっと根が深いのだと思います。
三浦 いわれてみれば、母と息子の精神的な密着は、母娘のそれとはまた違う根深さがありますよね。輝久と喜久美もそうといえばそうなのか……。
岩宮 輝久と喜久美の場合は、血のつながりがないからこそ際限がないので、よりおそろしいものがあると私は感じました。「神馬に乗る女」を読みながら私はずっと「この人は危ない」と感じていましたからね。言うなれば、紫上を育てる光源氏のようだと。
三浦 それ、担当編集者さんも言っていました! 私はもう少し、少年が抱く大人の女性に対する無邪気な憧れ、みたいなものを想像していたのですが。
岩宮 いやいや(笑)。語りすぎるとこれもネタバレになってしまうので控えますが、彼女がカリスマ性など発揮せず、もっと素朴に普通のお母さんとして接してくれていれば、輝久はこんなにも苦労しなかったと思います。でもね、だからこそ、「金の糸」の健やかさに救われるんですよ。学校に行かないゴンゾーを、六実が自転車に乗せて登校するシーンがありましたよね。あれもまた、浄化であると私は感じました。家族にせよ、友達にせよ、相手を呑み込もうとする邪心も、拘束しようという執着もないまま、こんなふうにただ一緒にいることができたらどれほど幸せだろうかと。
三浦 確かに、あの二人には誰かをどうにかしてやろうという意図はまるでないですね。
岩宮 「金の糸」にも不意に深い穴の入り口に立たされるような仄暗さはあるんです。ただ、六実は日常と非日常をいったりきたりしながら、自分だけの現実をつかみとっている。それは彼がどんな夢を見ても呑み込まれず、日常へ戻していける人だからなのでしょう。託宣のように信じすぎるのでもなく、誰かをコントロールするために使うのでもなく、日常を守るための糧として受け止め、そして手放す。それができる人は、臨床の現場でも自然と変化していかれます。心理療法で私が戒めのように感じていることが、今作にはしっかりと紡がれていました。
三浦 ありがとうございます。小説も、もしかしたら夢のようなものかもしれませんね。私が日常で感じている、ふとしたおそろしさが折り重なって、無意識のうちにこの小説にたちのぼっていた。そのすべてを、書いている私自身ですらコントロールすることはできないのだろうな、とお話を聞いていて思いました。
岩宮 どんなに明るい小説にも、ふと仄暗さが垣間見え、あわいに立たされるのがしをんさんの小説の魅力だと思っています。その真髄に触れられて、とても嬉しかったです。
「小説すばる」2026年8月号転載














