夢と家族がもたらす呪縛

岩宮 カリスマ性に魅了されるということは、そのあわいを、境界線を、踏み越えてしまうということですよね。自分の感覚を手放してでも、相手の感覚に委ねてしまいたくなる。そこに『光』との重なりを感じたんです。美花の磁場にとらわれた信之は、だんだんと自分の意思を失っていきますよね。奪われた、というよりは、みずから放棄してしまった。
三浦 ああ、なるほど。
岩宮 そうなると、相手が何を指示したわけでなくとも、勝手に読みとって行動せねばならないと思い込んでしまう。それがまさに、宗教でも起こりうることで、本作における「夢見」の役割でもあると思いました。二話目以降に登場する夢見、いわゆる予知夢を見ることのできる人たちの語る夢が、従うべきものとしてどんどん人の心を支配していってしまう。
三浦 私は寝るのが大好きで、よく夢も見るんですけど、一度、夢のなかで妊娠したことがあったんですよね。気づいたらお腹もふくらんでいて、これは大変だ、仕事の調整をしなくちゃと慌てるんだけど、つわりで気持ちが悪いし、どうにもならない。で、目が覚めたらものすごく悲しいわけですよ。お腹にいたあの子はどこへ行ってしまったのだろう、と。身に覚えもないのになんでそんなリアルな夢を見たのかはわからないんだけど、あのまま夢のなかで子どもが育っていたらどうなっていたんだろう、というのが第二話「胡蝶(こちょう)」を書いたきっかけの一つです。

――第二話の主人公・未千(みち)は、大人になってから夢見の才能が開花した女性。なかなか子を授からない彼女は、夢のなかで妊娠・出産し、子育てする夢を夫と共有することで、日常と非日常のあわいを徐々に溶かしていきます。

岩宮 未千の場合は、祖母にもあった夢見の力を引き継いでいる、というところに一つの呪縛があるんですよね。
三浦 そうですね。祖母の力が本物だったかどうかなんて、誰にもわからないけれど、本物であってほしいと願うことが、その力を強固にしてしまうこともあるのかな、と思いました。私自身は、あんまり神秘的な力みたいなものを信じていないし、「何かのトリックでは?」と疑ってしまう。未千をはじめとする作中の人物も頭から夢見の力を信じているわけではないし、(あらが)おうとはしている。だけど、どうしても抗いきれない何かが生まれてしまうんですよね。「あれ? この人たち、全然逃れられないぞ」と自分でも不思議でした。
岩宮 それは、家族という凝集性のある集団が舞台になっているからだと思います。夢というのは本来、個人の内的な世界であるはずなのに、家族内で力を持つものとして共有したり、夢を見ることで序列が生まれたり、集団の秩序を生むための装置になってしまうと、(ゆが)みが生まれる。そのおそろしさが、本作ではありありと描かれていたように思います。
三浦 夢って、見ないことを自分の意思では選択できないじゃないですか。一時期、あまりに夢を見るものだから、日記をつけていたことがあって、そのときは夢の内容をコントロールできるようになってしまい、おもしろくないからやめたということがあるんですけど、でも、夢を見ること自体は変えられない。その選べなさは、家族とも似ているなと書きながら思ったんですよね。どんなにいい家族でも、いずれは巣立たなくてはならないように、夢も必ず朝になったら覚めなくてはならない。だけど未千は、あまりに幸福なその夢にとらわれ、逃れることができなくなったのだと思います。その幸福を守るために、夢を現実にしなくてはならないと思い込む。その時点で、夢にとりこまれてしまったのだ、と。
岩宮 そうなると、夢の真実性なんて関係ないんですよね。本人が、それが真実であると思い込んでいることが、何より優先されてしまう。
三浦 夢という言葉は「〇〇になりたい」という現実的な目標にも使われるじゃないですか。それもまた、呪縛となりうるおそろしいものでもありますよね。たとえば、プロのサッカー選手になれるのはほんの一握りなのに、なるしかないんだと思い込んでしまったら、その人生はとても苦しいものになってしまう。
岩宮 それもまた、境界線を見失うということですよね。未千が夢にとりこまれてしまった原因の一つに、子どもができないということがあった。夫婦二人で生きていくという現実を未千が受け入れることができていたなら、夢で子育てしていようと、なんの問題もなかった。いずれその夢が消えてしまったとしても、夢は夢、とちゃんと割り切ることができたはずです。だけど彼女は、現実の不安や痛みを、夢に肩代わりさせてしまったんですよね。大事なのは、日常と非日常のあわいにありながら、決して自分を見失わないことなのですが……。
三浦 でもそれって、ものすごく胆力が必要ですよね。
岩宮 そうなんです。それは中腰で生き続けるということだから、体幹がしっかりしていなければ、耐えられない。だから人は、一方に振り切ってしまいたくなることがあるんですよね。そうすると、それまでかろうじて保たれていた現実との往還が切れて、生活全体が一つの世界に引き寄せられていってしまうことも。夢であれ、理想であれ、怒りであれ、喪失であれ、それがその人にとって唯一の真実になってしまう。
三浦 そこから、また中腰のあわいに戻ることはあるんですか。
岩宮 簡単ではないと思いますね。いったん一方へ振り切ってしまうと、今度はその反対側へ振り切ることでしか自分を保てなくなることがあります。たとえば心を固く閉じてしまうとか。そこからまた「あわい」に戻るためにはどっちつかずの自分を受け入れながら、正解を決めることなく、それでも自分を守り続けるしかないんです。これがどんなに難しいことなのか、臨床現場で日々実感しています。だからこそ、そのあわいを描き続けるしをんさんの小説に、私は魅了されてしまうんです。たぶん、しをんさん自身が、あわいを生きておられるんだと思いますよ。
三浦 そうだといいんですが……ちょっと自信がないな(笑)。

いわみや・けいこ 臨床心理士、公認心理師。島根大学こころとそだちの相談センター特任教授。臨床心理相談室にしきまちオフィス代表。著書に『生きにくい子どもたち カウンセリング日誌から』『フツーの子の思春期 心理療法の現場から』『好きなのにはワケがある 宮崎アニメと思春期のこころ』『思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』『思春期心性とサブカルチャー 現代の臨床現場から見えてくるもの』『思春期センサー 子どもの感度、大人の感度』などがある。
いわみや・けいこ 臨床心理士、公認心理師。島根大学こころとそだちの相談センター特任教授。臨床心理相談室にしきまちオフィス代表。著書に『生きにくい子どもたち カウンセリング日誌から』『フツーの子の思春期 心理療法の現場から』『好きなのにはワケがある 宮崎アニメと思春期のこころ』『思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』『思春期心性とサブカルチャー 現代の臨床現場から見えてくるもの』『思春期センサー 子どもの感度、大人の感度』などがある。