事故物件のでき方
なぜそこまで家土地が崩壊していくのか。
そのヒントとなるのが、平安後期の『今昔物語集』の巻第二十七第一の話ではないか。
曰く、三条大路の北、東洞院大路の東の角には“鬼殿”と呼ばれる霊の住む場所があった。そこが鬼殿になったのは、まだ平安京に遷都されていなかったころというから、延暦13(794)年より前のこと。
今の鬼殿のある場所に大きな松の木があった。その脇を一人の男が馬に乗り、やなぐい(矢を入れて背負う武具)を負って通りかかると、にわかに雷鳴がとどろき大雨となったので、男が馬から降りて木のもとに座ったところ、落雷に遭い、馬共々死んでしまった。
そしてそのまま男は霊になった。やがて遷都があり、そこに家が建って人が住むようになったものの、霊は失せず、たびたび“不吉ヌ事共”があったという(巻第二十七第一)。
“事共”と複数形であるところに、凶事の多さが表れている。そして、男が霊になったのは思いがけず死が降りかかり、その死に納得できなかったから、であろう。
ここが一つ、ポイントとなる。
初めに存在するのは、「納得できない霊」、いわゆる成仏できない霊なのだ。
そんな男の霊によって凶事があっても人が住み続けたのは一等地だったからである。が、結局、凶事が度重なって、凶宅と化してしまった。
天皇になりたかったのになれぬまま死んだ、嵯峨天皇の皇子の源融が住んでいた河原院が、宇多法皇の御所となったあと、融の霊の出現する幽霊屋敷になって、寺になった。
これも、同じ源氏に下った皇子ながら、宇多は即位したのに、自分はできなかったという恨みと納得できぬ気持ちに加え、その邸宅が陸奥の塩竈を模した豪壮なものだったため、一つには場所への執着もあって、霊の住む曰く付きの邸宅となったのである。
このように、曰く付きの物件となるのは、その物件で事故や事件があったり、恨みをのんで納得できぬまま死んでいった(であろうと人々に信じられている)人が過去に住んでいたりといった原因がまずある。
陽成上皇の住んでいた二条院がお化け屋敷となったのも、殺人を犯して退位したとされる陽成上皇が、その屋敷でも数々の陰惨な事件を起こしていたため、殺された人々の怨念が憑いていたと考えられていたのではないか。













