高市早苗はなぜ保守になったのか
高市の国政初挑戦は参議院選挙だ。92年5月の参議院選挙で自民党公認争いに敗れて落選し、93年7月の衆議院議員選挙でも自民党公認に応募してきたが叶わず、奈良県全県区から無所属で出馬して初当選した。折しも政界再編の始まりの頃と重なる。
無所属で当選した高市は、細川政権の崩壊した94年4月に小沢一郎が渡辺美智雄に自民党からの集団離党を呼びかけた政策集団「リベラルズ」に加わった。
このときの首相首班指名で新生党の羽田に票を入れ、そのまま新進党に入ったのである。この頃の高市を知る実業家が打ち明ける。
「かつて世界救世教が金丸(信)さんを応援していて、私もそこに関係していました。その縁もあって田中角栄さんと面識をもちました。自民党と私との歴史は古く、そのあと中曽根康弘さんの頃にも付き合いがありましたけれど、民社党(元書記長)の中野寛成も応援してきたので、新進党の結成にも力を貸しました。新進党の結成時は海部さんが党首で、小沢さんが幹事長、中野さんが政策審議会長になった。
高市さんはまだ衆議院議員の1期生でしたけれど、新進党に飛び込んできた。それ以来の付き合いです。高市さんは極右みたいな印象で語られるけれど、民主との付き合いもあって本当は中道だと思っています。そこが出発点ですから」
もともとリベラルズは渡辺美智雄の側近だった柿澤弘治がリクルート事件や東京佐川急便事件を機に、政治とカネの決別を訴えて旗を揚げた自民党の政策グループだった。
細川が首相の退陣を表明した折、渡辺が小沢一郎による集団離党の誘いに乗り、そこに相乗りしたかっこうだ。結成当初のリベラルズのメンバーは柿澤のほか、太田誠一や新井将敬、佐藤静雄、山本拓で、自民党離党後に自由党をつくり、新進党に合流する。
ちなみに自由党という党名は、戦前戦後問わず小沢が新進党を改組したものを含め最近にいたるまで日本にいくつも存在してきたため、柿澤自由党と別称されることもある。
そしてこの自由党に米田建三、さらに高市が流れ込んだ。前述したように高市は参議院選挙に続き、初当選した93年の衆議院議員選挙のときも自民党公認を得られなかったが、細川政権誕生のときは自民党総裁の河野洋平に首班指名の票を投じている。
つまり自民党に未練もあったのだろうが、新しい潮流に乗ろうとしたのだろう。リベラルズ改め自由党に合流した。なお、リベラルズのメンバーだった山本は現在の高市の夫である。
リベラルズでは、肝心の渡辺が自民党総裁の河野洋平の慰留により、離党を断念して小沢の計画は宙に浮いた。結果、誕生したのが羽田政権であり、社会党が離脱したあとアテこんでいた自民党の大量脱藩はなかった。
しょせん長く続くはずもなかった。少数与党政権に転落した羽田政権は、自民党から提出された内閣不信任決議案の採決直前に退陣表明し、非自民政権は終焉を迎える。先に書いたように戦後二番目の短命政権だ。
そしてこの非自民政権に代わり、誕生したのが自社さの連立政権である。橋本や梶山、野中広務、亀井静香などがさきがけの武村らに声をかけ、社会党を引き入れたとされる。
自民党に残った渡辺は、社会党の村山に対する首班指名に抵抗し、中曽根も反対した。だが、すでにどちらも政界における求心力を失っていた。
政治とカネにクリーンなリベラルを謳った高市が強硬保守と呼ばれるようになったのはなぜか。理由については稿を改める。とどのつまり高市は単なる数合わせの勢力争いの流れに乗っただけなのであろう。ここから日本の政治そのものが迷走する。(敬称略)
取材・文/森功













