短命政権と政界再編の時代へ

1993年7月29日、細川護熙と小沢一郎  写真/毎日新聞社/アフロ
1993年7月29日、細川護熙と小沢一郎  写真/毎日新聞社/アフロ

そしていよいよここから政党勢力が溶解し、政界再編の幕が開く。現在にいたる新党ブームも、ここが始まりだと言っていい。主役は変わらず自民党を離党した小沢一郎と竹下派を束ねていた橋本龍太郎だ。

宮澤喜一政権下の93年7月の衆議院議員選挙で、全511議席のうち自民党は222議席から223議席とほぼ横ばいだったのに対し、社会党は134議席から70議席と半減する。

代わって大幅に議席を伸ばしたのが小沢の立ち上げた新生党(羽田党首)で、選挙前の36議席から55議席と1.5倍に躍進した。この一龍戦争では、いったん小沢に軍配が上がる。小沢が最初に政界再編を仕掛けたといっていい。

このときの総選挙で注目されたもう一人のキーパーソンが、熊本県知事だった細川護熙である。細川は日本新党を旗揚げし、衆院に鞍替えして初当選すると、非自民・非共産連立政権を標榜して8党会派をまとめ、内閣総理大臣に首班指名された。

8党会派の党首や成り立ちを改めて記すと、羽田の新生党、細川の日本新党、武村正義の新党さきがけ、村山富市の日本社会党、石田幸四郎の公明党、米沢隆の民社党に加え、江田五月や菅直人が社会党左派から枝分かれして立ち上げた社会民主連合、労働組合のナショナルセンターである日本労働組合総連合会(連合)をバックにした参議院院内会派の民主改革連合である。

日本新党や新生党は元自民党議員が多く保守色が強い。反面、そこへ左右の社会党が合流して一堂に会した。8党会派は文字どおりの寄せ集め議員がいっしょに政権を運営するという建付けだから、うまくいくはずがない。

バラバラの連立政権は「ガラス細工」と揶揄され、案の定、首相に就いた細川の佐川急便スキャンダルが浮上し、寄せ集め政権は1年足らずであっという間に瓦解した。

このとき小沢は社会党を切り捨て、自民党の渡辺美智雄に集団離党を促したが、その工作も失敗に終わる。細川のあとに新生党党首の羽田孜が94年4月に新内閣を発足させたが、羽田政権は宇野政権以下の64日という超短命に終わった。

と同時に小沢一郎の非自民政権の夢はここでいったん終わり、94年6月、自民を中心とする自社さの村山富市政権が誕生する。しょせんガラス細工政権では無理があったというほかない。このときは橋本が小沢に勝ったということであろう。だが、村山政権もまた似たような寄せ集めといえた。

ちなみに小沢の率いた新生党は巻き返しを図ろうとこの年の12月に公明党と合流し、新進党に衣替えする。新進党の設立は立憲民主と公明が合流した現在の中道改革連合とよく似ているといわれる。

新生、公明、民社といった政党が中心となって結成されたものの、主力である公明は一部しか合流しなかった。中道改革連合の結成時も、参院では立憲民主と公明が合流せず、いまだ調整中だ。当時の新進党でも同じように地方の公明組織などはそのまま残り、一枚岩にはなれなかった。

この新進党では、自民党を離党して自由改革連合を結成した海部俊樹が新生党の羽田や民社党委員長の米沢隆と競って党首となり、そこへかつて渡辺美智雄を担いだリベラルズの柿澤弘治、さらには現首相の高市早苗まで加わっていた。高市は初めからゴリゴリの保守ではなくリベラルだったという説はここから由来する。