日本人として初めてグラミー賞の4部門にノミネート

冨田勲のアルバム『Snowflakes Are Dancing』(※アメリカにおけるタイトル)がビルボード誌の全米クラシカル・チャートで、ベストテン入りの快挙を果たしたのは1974年10月19日のことだった。

このアルバムは4月に発売されてから半年近くもの間、ベスト100内にチャートインしていたのだが、10月に入ってから18位、14位と上昇して19日に6位になった。

日本での発売元だったビクター・レコードはアメリカでの成功を受けて、音楽関係者や放送局、レコード店にも知ってもらおうと、「『月の光』(※日本盤のタイトル)はジャンルの壁を越えました。」というキャッチ・コピーで広告を出稿した。

冨田勲は1950年代前半から放送、舞台、映画、コマーシャルなど多彩な分野で作編曲家として優れた作品を数多く残している。写真は『月の光 - シンセサイザーによるメルヘンの世界』(2015年4月22日発売、SonyMusic)のジャケット
冨田勲は1950年代前半から放送、舞台、映画、コマーシャルなど多彩な分野で作編曲家として優れた作品を数多く残している。写真は『月の光 - シンセサイザーによるメルヘンの世界』(2015年4月22日発売、SonyMusic)のジャケット
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そこでは「冨田勲『月の光』はポピュラー、クラシックの枠を飛び越えてしまいました。また全米ビルボード誌でも6位にランクされたということは、音楽の世界に国境はないということを確実に物語ってくれています。」と、さらに伸びていく可能性が打ち出されていた。

そして年が明けた1975年には日本人として初めてグラミー賞の4部門にノミネートされたことで話題を集めた。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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「高いだけの鉄くずを買ってしまった」と後悔したことも…

冨田はクラシックと現代音楽の作曲家であり、主に映画やテレビを舞台に活躍していたが、この斬新なアルバムを制作したのは、未知の可能性を持った機械の“シンセサイザー”と出会ったからだった。

1970年の大阪万博で流す音楽を録音するための準備をしていた1969年。

冨田は輸入レコード店でウォルター・カルロス(現在はウェンディ・カルロス)の『スイッチト・オン・バッハ』を手にした瞬間、そのアルバムこそは自分が求めているものだと直感したという。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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それは、モジュラー式のモーグ・シンセサイザー(MOOG III-C)を全面的に用いて制作された作品だった。

冨田が日本で初めてモーグ・シンセサイザーを個人輸入したのは、それから2年後の1971年秋のこと。

非常に高額だったために、購入に際しては金銭面で苦労した。しかも説明書がまったく付属していなかったので使い方が皆目わからず、まともに音を扱うためには実験を重ねるしかなかった。

その段階から大変な苦労があり、「高いだけの鉄くずを買ってしまった」と後悔したこともあった。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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だが、あきらめずに試行錯誤しながら音作りに挑んで、自宅にマルチトラックレコーダーを購入し、電子音楽のためのスタジオを作るまでにこぎつけた。

そして電子音による管弦楽曲の再現を目指して、気の遠くなるような手間をかけながら、まったく独力で『月の光』を作り上げていった。

エレクトロニック・ミュージックとポップ・ミュージックの歴史において、最も重要な作品となるこのアルバムが世に出なかったら、電子音楽の歴史はまるで違うものになっていただろう。

しかし歴史を変えたこのアルバムは、日本の音楽界では早すぎて正しく理解されず、クラシックにもポップスにも入らないという理由から、売り手側の都合だけでレコードとして発売してもらえなかった。

音楽を商品としてしか見ていないのが、日本のレコード会社の情けない現実だったのだ。

だが、かえってそれが良かったのかもしれない。