世界が認めた「ISAO TOMITA」の誕生
冨田は伝手をたよって『スイッチト・オン・バッハ』を発売したRCAに連絡し、アメリカにわたってテープを聴かせたところ、相手は大いに乗り気で1枚だけでなくシリーズで発売したいとまで言われたのである。
また、通常のLPレコードの他にRCAが開発していたCD-4という、4チャンネルのレコードとテープで発売することも決まった。
最初にリリースされたアメリカでは、発売当初から大きな反響を呼んだ。
RCAもプロモーションに力を入れて、ニューヨークで試聴会や発売記念パーティなどを開いたので、メディアも好意的に取り上げた。
こうしてアメリカで才能が高く評価されて好セールスを記録したことによって、世界の“ISAO TOMITA”が誕生したのである。
ビルボードと提携していた日本の音楽業界誌『週刊ミュージック・ラボ』の1974年10月10日号には、冨田のインタビューが掲載されて表紙を飾った。
実はこのLP作るのに1年2ヶ月かかっているんです。なぜそんなに手間がかかるのに我々がこれに熱中するかと言いますと、既成の楽器では出なかった効果が出ることと、実際の演奏では不可能なことが表現できるわけですね。ですから、このピアノ曲で「沈める寺」というのがありますけれども、これなんかは実際の演奏ではできない遠近感といいますか、そういう表現ができるんです。しかも非常に広い空間を感じさせる音なんですけれども、実はこの部屋の中でみな作っちゃってるわけです。
最終的には大ヒットを記録した『月の光』は、アメリカでの成功があったおかげで、日本でもやっと発売されることになった。
ところが日本の音楽評論家や音楽家には好意的に受け入れてはもらえず、オーディオ評論家などからも貶されてしまう。
でも、特に意気消沈することもなかったな。逆に、こんちくしょう、もっとやってやろうという気が起きたんで、僕にとっては恩人でもある。反対に、手塚治虫さんやNHKの吉田直哉さんなどには、とても勇気づけられた。手塚さん自身は電子音よりも生のオーケストラが好きだし、吉田さんも賞賛の言葉を口にするわけじゃないんだけど、音を聴かせた時の表情で、気に入っている、面白がっているということがわかるんです。
冨田はそこからまだ歴史が始まったばかりのシンセサイザーという機械のことを、あくまで人間が操作するものであると理解し、それを新しい楽器にすることに全力を投入して取り組んでいく。
絵で言えば、シンセサイザーの機械がパレットでキャンバスがテープですね。16チャンネルでひとつひとつ音を作っては重ねていくわけですよ。そしてオーケストラにしていくという――。16ですけれども、ある程度たまったところで、全部混ぜあわせて、そしてまたチャンネルを空けて音を作り、足していきますから、チャンネルは16ですけれども、これでいくらでも重ねていけるわけです。ですから、ちょうど絵を描くとか彫刻を作るといったような音楽の作り方ですね。
「絵を描くとか彫刻を作るといったような音楽の作り方」を追求した冨田が、2枚目のアルバム『展覧会の絵』を完成させたのは翌年の春である。
それが1975年8月16日、ビルボード全米クラシカル・チャートで第1位を獲得して、ISAO TOMITAは脚光を浴びたのだった。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP














