死ぬならがんがいいという考え
死ぬなら、がんで死にたいという人がいます。心筋梗塞による突然死などと違って、やり残したことを整理する時間がある、というのがその理由です。
かつて、30代の乳がんの患者さんに完治しないと告げ、やれることとして抗がん剤治療があると説明したことがあります。
すると「それはどのくらい寿命を延ばすんですか?」と質問されたので、「2年から3年です」と答えました。
さらに「それはどのくらいの負担があるのですか?」とたずねるので、入院が必要なことやその期間などについて説明しました。
すると彼女は、抗がん剤治療は一切しないと言って、旅行をしたり、あこがれだったという高級ワインを飲んだり、残された時間を満喫して、亡くなりました。ある意味で、自分が思い描くような死を受け入れたのだと思います。
私も自分が膀胱がんになった経験から、死ぬならがんがいいと思うようになりました。
18年12月9日、私は偶然、自分が膀胱がんであることを発見しました。
その日は知り合いの医師の病院で当直していました。エコー(超音波)の装置が置いてあったので、自分の肝臓を勝手に調べていました。私はお酒が好きなので、脂肪肝が気になり、当直のたびにエコーでチェックしていたのです。
その日は、肝臓だけでなく、なんとなく膀胱も調べてみることにしました。そのとき、膀胱に腫瘍らしきものを見つけてしまったのです。
東大病院の泌尿器科で精密検査を受けたところ、やはり早期の膀胱がんであることがわかりました。
自分ががんとわかって、私は大きなショックを受けました。それは何の根拠もないのに「自分はがんにならない」と思い込んでいたからです。
養老先生は、年をとればがんの1つや2つあっておかしくないと開き直っていましたが、普通の人はがんと聞いたらショックを受けるのが一般的でしょう。
それは人間だけが死を避けようとする動物だからです。誰でも自分がいつか死ぬ存在であることはわかっています。その一方で、普段は自分の死について考えないようにしています。がんは普段考えないようにしていた死を呼び起こす病気なので、誰もがあわててしまうのです。
養老先生が言っていたように、「抽象的な死」が「具体的な死」に変わるのが、がんという病気です。
文/中川恵一













