北玉時代
大鵬が引退し土俵から去っても、昭和46(1971)年五月場所は盛り上がりを見せます。北の富士は初日から白星を積み重ね14連勝、千秋楽は13勝1敗の玉の海との決戦でした。この一番、北の富士が勝ち、6回目の優勝を自身初の全勝で飾ります。
玉の海も負けていません。翌七月場所は、玉の海が初の全勝優勝を成し遂げ、優勝回数も6回で両者が並びます。北の富士29歳、玉の海27歳、まさに両横綱が円熟期に入り、いよいよ本物の「北玉時代」到来と誰もが期待を膨らませました。
北の富士は、脚も長く、男っぷりも群を抜いていました。立ち姿も見栄えがする横綱でした。塩を取って正面に向き直ると、左手はまわしに置きます。右手でつかんだ塩を、横から手首を使ってフワッと撒いて土俵に入ります。そうした所作のひとつひとつが絵になりました。
玉の海は、上背こそありませんが、いかにも力士らしい体型でした。下半身に安定感を蓄えた横綱でした。土俵上での雰囲気は、北の富士に比べると地味です。それでも「双葉山の再来」と言われたように、相手に攻めさせても負けない強さを誇りました。
得意の四つ身は、北の富士の左に対して、玉の海は右、いわゆる「けんか四つ」です。ところが、両者の対戦では、毎回のように北の富士得意の左四つ、あるいは北の富士の双差となりました。つまり、北の富士の差し身の巧さが優っていたわけです。
しかし、玉の海は不利な体勢でも対抗できました。両雄の、優勝決定戦を含む46回の対戦の中でも、玉の海が得意の右四つになったのは、わずか数回です。もちろん、右四つになれば玉の海は負けません。とくに左からの上手投げは伝家の宝刀でした。
昭和44(1969)年から46(1971)年にかけて、毎場所のように、北の富士、玉の海の優勝争いが展開されました。当時、私は子ども心に「玉の海のほうが強い」と感じていました。
即興の不知火型
ところが、「北玉時代」は、早くも終幕に近づいていました。
昭和46(1971)年七月場所、玉の海は全勝優勝を果たします。しかし、その場所前から虫垂炎を発症していました。
そして、ついに場所後の夏巡業中に痛みが激しくなります。それでも、玉の海は虫垂炎の痛みをこらえながら巡業に向かいます。この時の夏巡業は、北海道へ行くA班と東北を中心に本州を回るB班とに分かれて行われていました。
北の富士のA班が全ての日程を終えた時、B班の玉の海が虫垂炎をさらに悪化させ、ついに緊急入院のため帰京します。
B班の巡業はまだ数日残っていました。連絡を受けた北の富士は急遽、B班の巡業地、秋田県八郎潟に向かいます。北の富士の土俵入りは雲龍型ですが、この時ばかりは玉の海に代わり、不知火型の土俵入りを披露しました。
「急遽だったよね。『玉の海の化粧まわしと綱をそのまま残しておいてくれ』って連絡して、俺は稽古まわしと締め込みだけを持って行った。そして、玉の海の化粧まわしをつけて綱を締めたんだよ。綱は当然、不知火型だから、後ろの輪がふたつある。不知火型の綱を締めて雲龍型の土俵入りはおかしいでしょ。さてどうしようか。普段はあまり迷ったりしない人間だけど、ギリギリまで考えた。
土俵入りが始まって、正面を向いてね、柏手を打って四股を踏んだ時に、まだ『どうしようかなあ』って思いながら、直後、両手を広げてたね(せり上がりの時、雲龍型は左腕を畳むが、不知火型は両腕を広げる)。なぜやってしまったのか、自分でもわからない。何か、誘われるように不知火型だったね。土俵下にいた親方衆や若者頭が『おいおい』ってね、声を上げてた。会場にも、俺の土俵入りがいつもと違うのをわかる人がいたんだろうね。少しザワザワしていたよね。そのうち、土俵入りが終わると、拍手喝采だったですよ」
雲龍型、不知火型の両方の横綱土俵入りを披露したのは歴史上、北の富士さんが最初です。ちなみに、史上2人目として、40年後の平成23(2011)年12月4日、大分県の宇佐神宮で、白鵬(69代横綱)が本来の不知火型ではなく雲龍型の土俵入りを披露しています。「双葉山生誕100年記念」のイベントでの出来事です。双葉山に敬意を表した雲龍型でした。
北の富士さんは、翌日の巡業地でも不知火型を披露したという記事が残っています。実は、若い頃から横綱土俵入りの稽古をしていたことを明かしてくれたことがあります。
「俺たちが若い頃はね、出羽海部屋の前が石屋さんだったんだよ。その石屋にちょっとした空き地があってね。表の通りからは見えない、隠れたところにね。稽古が終わると、そこで稽古まわしをほどいたり、干したりなんかしてね。力士が多過ぎて、稽古場でまわしをほどくこともできないからね。そのときに、当時の若衆はみんな、横綱土俵入りの稽古っていうのかな、まねごとをしていたんですよ。
と言っても、夢や希望を持って、土俵入りの稽古をしたんじゃないよ。若い時なんてね、本当の横綱になんかなれっこないことぐらいはよくわかってますから。せめて、まねごとぐらいはと思ってやってたよね。おまけに、おまえは露払いをやれ、おまえは太刀持ちだとか言いながらね。短い箒か何かを持ちながら……。だから土俵入りは、誰でもできたんじゃないの。完璧に憶えていましたよ」
それでも、不知火型の稽古は経験がありません。
「うちの師匠(31代横綱・常ノ花)が雲龍型だったから、まねごとも全部、雲龍型だったね。だからね、のちに新横綱になった時にね、今でもそうだけど、綱打ちをして、その真新しい綱を締めて、一門の先輩横綱が土俵入りを教えるでしょ。俺の時はね、教えてもらわなくても簡単にできたからね、『覚えがいいね、おまえ。なかなか筋がいいね』なんて言われてね。『若い頃から練習していました』とは、さすがに言えなかったけどね」
八郎潟での、玉の海に代わっての土俵入りは、正真正銘の初めての不知火型でした。残念ながら映像としては残っていないかもしれません。
「残っていないだろうね。あったら、歴史的な映像になるんだけどね。でも、写真はありますよ。新聞社かな。うん。なかなか様になっているよ。いい恰好ですよ」
北の富士さんはそう振り返ります。ところが、「支度部屋で不知火型の練習をしていた」と証言する相撲関係者もいます。「アドリブか、台本通りか」「とっさか、計算か」の真相はともかく、玉の海の病状の快復を願う心や、一日も早く土俵に戻ってきてほしいという思いが伝わる北の富士さんの不知火型でした。














