「言わなかったほうがよかったな、と思います」

証言を始めた時から緊張と苦悩の時間が始まった。証言に対してインターネットでは「このジジイ、嘘ついてやがる。か、実在しない人物だな」と誹謗中傷も投げつけられた。

「私は自分がやったことしか話してません」

清水さんは毅然と反論するが「実際にはかなり堪えていた」と原さんは感じたという。

「マルタ」の標本室を見た時の苦悩を語る清水英男さん(撮影/集英社オンライン)
「マルタ」の標本室を見た時の苦悩を語る清水英男さん(撮影/集英社オンライン)

飯田市では2022年5月に市営の「飯田市平和祈念館」がオープンした。その時も731部隊に絡む清水さんらの証言の扱いが問題になった。

市民から戦争に関係する資料の寄贈を募り、祈念館の展示品を準備した平和資料収集委員会が清水さんとBさん含む長野県出身の4人の元731部隊員の証言パネルを作ったが、飯田市教育委員会は展示をしないことを決めたのだ。

平和資料収集委にも関わった原さんは「市教委は本人らに証言パネルを見せ、展示していいか確認まで求めました。この時故人だったBさんの遺族は応じませんでしたが、清水さんを含め当時存命の3人は展示に同意しました。しかしこの作業をしたのに市教委はパネルを今も展示していません。その理由は未だにわかりません」と話す。

飯田市平和祈念館(撮影/集英社オンライン)
飯田市平和祈念館(撮影/集英社オンライン)

この平和祈念館にはBさんが持ち帰った医療器具などは展示されている。証拠が隠滅された731部隊の「物証」として極めて貴重なものだ。731部隊が細菌兵器の研究や人体実験を行なったと認めた2002年の東京地裁判決を紹介するパネルもあり、731部隊関連の展示の質と量は全国にある公立の戦争関係の展示施設の中でも群を抜いている印象を受ける。

その平和祈念館に証言パネルを展示しなかったことについて飯田市教育委員会は、

「市民から寄贈された約1800点の資料のうち展示しているのはスペースの関係で約120点だけです。このため『寄贈された資料に紐づいた証言』のパネルだけを展示しようと考えました。しかし、この条件に唯一合うBさんの証言はご遺族の同意を得られませんでした。当時存命だった他の3人の証言者にはパネル内容の確認は求めましたが、開館前に様々な作業を同時並行で行なっており、パネル展示を決めた状態ではありませんでした。

731部隊に関する歴史認識や学問的研究は未だその途上にあり、社会的に多様な意見が存在するため慎重な検討が必要であるという認識です。

Bさんが持ち帰った医療器具などは他には類を見ないものだと認識をしており、そういう視点で展示をしています」(担当者)

と説明する。

政府は2003年、731部隊について「外務省、防衛庁等の文書において、細菌戦を行なったことを示す資料は現時点まで確認されていない」と表明。“公的見解”で731部隊の蛮行を認めたのは司法(2002年、「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」で東京地方裁判所・岩田好二裁判長が事実認定)だけだ。

731部隊の技手だった故Bさんが持ち帰り、飯田市平和祈念館に展示されている部隊の備品(撮影/集英社オンライン)
731部隊の技手だった故Bさんが持ち帰り、飯田市平和祈念館に展示されている部隊の備品(撮影/集英社オンライン)
すべての画像を見る

 証言パネルを展示しない飯田市の判断にも影響したことがうかがえる政府の態度について清水さんは、「本当のことを言えばお互いに心(のわだかまり)が解けて理解し合い、平和がやっとできるんじゃないかなと思う」と残念がる。

その思いで証言を続け、昨年は大阪の医師団体に誘われて79年ぶりにハルビンを訪れ、被害者の慰霊施設で頭を下げた。

時々「マルタ」の標本が夢に出てきた。中国から帰ってしばらくすると見なくなったが、最近また出てくるようになった。清水さんが描く日中の和解は遠いままだ。取材の最後には弱気な言葉が口をついて出た。

「自分の気持ちとしては(証言をして)謝ってきたつもりですけれども、とんでもねえこと言ったという人もいると思います。言わなかったほうがよかったな、と思います」

戦後80年を迎えた2025年も終わろうとしている。

「本当のことを言い残したい」

そうつぶやいた清水さんの心の中で、忌まわしい戦争の記憶と痛みは今年も消えなかった。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班