作品のネタとした女性たちとの交流と三度の結婚
谷崎のエキセントリックな性癖に大きな影響を与えたのは、母の関である。彼女は錦絵のモデルになるほどの美貌の持ち主であった。
1886(明治19)年、そんな母・関と入り婿だった父・倉五郎との間に谷崎は生まれた。東京の日本橋人形町という都会で育ち、神童と讃えられるほどの秀才ぶりを発揮する。感受性の強い谷崎は、幼いながらに母の美しさ、それも肉体の妖艶さをすでに認識していたという。
――顔ばかりだけでなく大腿部の辺の肌が素晴らしく白く肌理が細かだつたので、一緒に風呂に這入つてゐて思わずハツとして見直したこともたびたびであつた。(『幼少時代』より)
風呂の水に浸った母の白く豊満な肉体は、幼い谷崎に衝撃を与え、彼が追求する「美」の定型として、その後の人生と作品に絶え間なく働きかけることとなる。
谷崎の最初の結婚は1915(大正4)年のこと。相手は家庭的で慎ましい性格の石川千代だった。しかし、谷崎はすぐに千代の妹・せい子に惹かれてしまう。彼女は千代とは正反対のわがままで自由奔放な性格。さらに出会ったときに14歳でありながら年上の谷崎に平気で口答えをするほどの気の強さもあった。
マゾっ気を刺激された谷崎はせい子に猛アタックし、やがてふたりは関係を結ぶ。谷崎はせい子を横浜にある映画会社の看板女優にするために当地に家を借り、あろうことか同棲を始めた。
これを知った千代は当然強いショックを受け、谷崎の友人である作家の佐藤春夫に相談するようになり、やがて佐藤と千代は関係を持つ。
その後、谷崎は千代を佐藤に譲るという約束を交わすが、せい子にふられたことでその約束を撤回する。怒った佐藤は絶交を申し渡した。その後、ふたりは和解して谷崎と千代は離婚し、晴れて佐藤と千代は結ばれることとなった。
なお、千代は『蓼喰ふ虫』に登場する美佐子、せい子は『痴人の愛』に登場するナオミのモデルである。
谷崎の二度目の結婚は1931(昭和6)年のことで、相手は20歳年下の記者・古川丁未子だった。しかし、結婚後まもなく、谷崎はのちに三番目の妻となる根津松子と不倫したため、この結婚生活は3年と保たなかった。
ダブル不倫の末、松子と三度目の結婚を果たしたのは1935(昭和10)年のこと。17歳も年の離れた松子とその妹たちは、翌年に発表する傑作『細雪』に登場する四姉妹のモデルである。
結婚前、家庭のあった松子に宛てた書簡には、“洗練されたクールな都会人”という谷崎のイメージからはかけ離れた、気恥ずかしい文面も多数見つかっている。
――御主人様、どうぞどうぞ御願ひでございます御機嫌を御直し遊はして下さいまし(中略)御腹立ちが癒へますやうにと一生懸命で御祈りいたしました、眠りましてからもぢつと御睨み遊ばした御顔つきが眼先にちらついて恐ろしうございました、ほんたうにゆうべこそ泣いてしまひました(中略)今度からは泣けと仰つしやいましたら泣きます、その外御なぐさみになりますことならどんな真似でもいたします(千葉俊二編『谷崎潤一郎の恋文』より)
このように谷崎は松子を「御主人様」と称し、下僕になりきって書いた恋文をなんと約300通も交わしたという。谷崎が求めたマゾヒズムの作品世界は、松子という偉大なる理解者によって大きく広がったといえる。
日本的な美学を追究した谷崎の作品からは独特な色気が感じられ、その美意識の核心部には官能的な女性が常に潜在していた。
晩年の谷崎は熱海で暮らし、1965(昭和40)年7月30日、松子に看取られて刺激的な女性を求め続けたその生涯を穏やかに終えている。
監修/朝霧カフカ













