郷土料理「うずめ飯」と最期に示した津和野への想い

鴎外の悪食のもうひとつのルーツは、故郷・津和野にあると思われる。

森鴎外は本名を林太郎といい、1862(文久2)年、石見国鹿足郡津和野町田村(現在の島根県鹿足郡津和野町町田)の貧乏な医者(典医)の跡継ぎとして生まれた。

貧しい環境にあっても幼少期から神童ぶりを発揮していた鴎外に対し、両親は「森家」の家名を挙げるため立身出世を切望する。そして、鴎外がわずか10歳のときに、代々藩医を務めていた津和野を捨て一家総出で上京した。以後、鴎外自身は一度も津和野に帰ることはなかった。

鴎外は期待に応えるべく必死に勉学に励み、年齢を2歳偽り11歳で第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)の予科に入学する。ちなみに当時の入学年齢制限は14~17歳だ。その後、同校医学部本科を19歳で卒業している。

それからは食いっぱぐれのない軍医の道に進み、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)にまで上りつめた。さらに、作家、翻訳家としても活動し、宮内省帝室博物館総長兼図書頭、帝国美術院初代院長、慶應義塾大学の文学科顧問と、その活躍の幅は多岐にわたった。

60歳で亡くなるが、死の1カ月前まで公務を全うしていたという。鴎外の墓は現在ふたつあり、長く暮らした東京と故郷・津和野に建てられている。ひとつは東京都三鷹市の禅林寺、もうひとつは島根県津和野町の永明寺だ。ちなみに、禅林寺は太宰治の墓があることでも知られる。

死の3日前、鴎外は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」などと書かれた250字余りの遺言を残している。

これはすでに自ら筆を執る力さえなくなっていた鴎外が、学生時代の親友・賀古鶴所に代筆を頼んだものだ。遺言を要約すると「自分はあらゆる肩書きを捨て、石見の国で生まれた森林太郎という一個人として死ぬ」である。

北九州市の小倉駅前にある森鴎外旧居の碑 写真/Wikimedia Commons
北九州市の小倉駅前にある森鴎外旧居の碑 写真/Wikimedia Commons
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この遺言からは、10歳にしてその地を離れ、その後は一度も帰郷しなかったにもかかわらず、津和野に激しい想いを募らせていたことがうかがえる。すべてをなげうってまで寄せる家族の期待を一身に背負っていたがゆえに、故郷への思慕の念には長年蓋せざるを得なかったのかもしれない。

そんな津和野には「うずめ飯」という郷土料理がある。鴎外も幼少期にその味に親しんだという。うずめ飯は、細かく切って出汁で煮た野菜や豆腐などの具材と汁を器に盛り、それらを隠す(うずめる)ように上から白米をのせた料理である。どことなく、鴎外が愛してやまない「饅頭茶漬け」に通ずる。

また、エリート街道を歩み、家族の期待以上に立身出世を果たしたあとも、鴎外が普段の食卓で好んでつくらせていたのは、牛の肉汁だけで煮込むキャベツ巻きやジャガイモコロッケといった、留学中に覚えたドイツの質素な家庭料理であった。

西洋レストランで食事をする際も、ステーキやハンバーグといった上等な料理には一切興味を示さなかったという。

どんなに裕福になっても、食に関しては貧しかった幼少期のままで、庶民的な感覚の持ち主でもあったといえるだろう。表には決して出さないけれど、“舌”の上では大切な郷土への愛を素直に表していたと考えれば納得できる。たとえそれが周囲からすると悪食であったとしても。

なお、禅林寺と永明寺のどちらの墓にも、鴎外が望んだとおり栄誉や称号の類はもちろん、「鴎外」という号すら記されることなく、ただ「森林太郎墓」とのみ刻まれている。

#3に続く

監修/朝霧カフカ 写真/Wikimedia Commons、Shutterstock

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