罪のない秘密から

――小説中盤の象徴的な場面、あそこからだったんですね。主人公の運命を決定づける、非常に印象的な瞬間が描かれています。

小池 たまたま、その場にいた二人の感情が一致するという不思議な瞬間。不貞を犯すわけでもないのに、結果的に人間の原罪のようなものを背負わされることになる、この象徴的な場面が書きたかったんです。私は、小説を書くとき、割と「このシーンを書きたい」ということから始まることが多いです。

――小さな秘密から生まれた疑念を発端に、夫婦のすれ違いはどんどん大きくなっていきます。

小池 たまにあるじゃないですか、何かの拍子に「えっ、そうだったの?」って知ることって。その瞬間の不思議な感覚は誰もが経験したことがあると思うんだけど、人生って、そういうことの連鎖で実は成り立っているんだと思います。
 神の目から見れば、こうなっているというのがわかるけれど、神ならぬ人間にはわからないですからね。そういう人間の心理に焦点を当てているので、今回の小説は掛け値なしに「心理小説」と銘打つつもりで書きました。

携帯電話のない時代

――時代設定にも意味があるのでしょうか。彩和と俊輔が出会うのが一九八六年、二人の結婚式が一九八九年、昭和から平成に変わった年で、ここから日本のバブル経済は崩壊していくエポックな年でもあります。

小池 作品を書く時、携帯電話がない時代に設定するのが好きで。スマホがあればいつでも連絡がついてしまうから。今の時代を否定するつもりはないけど、携帯電話のなかった時代のほうが、すれ違う人間の心理や、こんなはずではなかったという偶然の積み重ねの恐ろしさや不条理を、小説として書きやすいということがあります。
 そんな時代を軸に、俊輔と彩和の親世代の出来事、戦争後に流れた時間などを考えて、一九八〇年代から物語を始めることにしました。

――落ち着いた穏やかな結婚生活を手にした彩和が、今の幸福が壊れることを考えたり、永遠の別れの場面に何とも言えない温かみを感じたり。幸福が不幸の始まりとなり、不幸と幸福はつねに表裏一体でもある。小説のテーマと構造がとてもうまく調和しています。

「“永遠”を描く心理小説」『ウロボロスの環』小池真理子 インタビュー_4
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