トントン拍子に売れるもめまぐるしい生活
当時22歳。漠然と東京に行きたい気持ちはあったと思い起こす。
「『よし、1回ちょっとやってみよう』と、60万円だけ握りしめて上京しました。相方は大学を、僕はデザイン専門学校を辞めて。1994年ごろだったかな。
でもね、東京NSC(吉本総合芸能学院)の1期生になろうとしたんですが、もう募集を締め切ってたんですよ。まさに“うちなータイム”ですよね(笑)」
あきらめきれなかったふたりはまずはお笑いを勉強しようとあることを始める。
「ちょうど、(吉本興業の)渋谷公園通り劇場がオープンするタイミングだったので、そこのボランティアスタッフとして入れてもらいました。掃除、チケットのもぎりはもちろん、ココリコさんやロンドンブーツ1号2号さんに『本番です、お願いします』って誘導したり。
ただ、芸人がネタをやってるときは舞台袖で見てもいいと言っていただけて。1年弱くらい続けたと思います」
ボランティア業務後にふたりでネタを作っては、吉本の社員に見てもらう。努力の日々の中でチャンスをつかんだ。
「(渋谷公園通り劇場の)舞台に、週1回立たせてもらえることになって。これがデビューですね。それにテレビ番組のオーディションもたくさん受けましたよ。ラッキーだったのは当時、ふたりとも沖縄出身というコンビがいなかったこと。『あれ? 君たち珍しいね』って言ってもらうことは多かったですね」
すると1997年、『ロンブー荘青春記』(日本テレビ系)のレギュラーに抜擢される。
「うれしかったですね。今まではスタッフ側だったのにロンドンブーツ1号2号さんと同じ土俵に立てて。トントン拍子? でも、売れることに必死でしたよ。毎週のように新ネタを作っていました」
その後は『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーにも。そして2000年に『ワンナイR&R』がスタートすると“ゴリエ&川ちゃん”の人気が大爆発!
「『ワンナイ』のころがいちばん忙しかったですね。ちょうどNHKの朝ドラ『ちゅらさん』(2001年)も始まって。めまぐるしい状況に取り残されないように、食らいついていくことに必死でした。もう訳がわからんかったですね、睡眠をとれるのは移動中くらいで。
まだ20代で若かったからできたんでしょうね。もちろん、街を歩けば声をかけてもらえるし、沖縄に帰ればみんなが大喜びしてくれる。“すごくいいお仕事だな”と思ってはいました」
6年間放送されていた『ワンナイ』が終了すると、やっと週に2日ほど休めるようになった。
「常にプレッシャーを抱え、“なんとかしなきゃ”と思い続けていた日々でしたから。僕としては『ワンナイ』が終わって、生活が落ち着いてからのほうが心にゆとりが生まれました(笑)」












