奥崎から原監督へ、朝6時の電話 

––––原さんが見た奥崎さんの躊躇の無い邁進ぶりというのはどういうものだったのでしょうか。

原 年を取ってくるとさ、真夜中に目が覚めるんでしょ。それで眠れないまま、いろんなこと考える。奥崎さんはそこでいろんなアイデアが思いつく。

皇居の前で等身大に伸ばした天皇のパネルに再びパチンコを撃つとか、靖国神社の慰霊祭に殴り込みたいので妻に花束を持たせてその中にドスを隠し入れて乗り込むとか。

彼はこういう行動を撮影して欲しいと深夜に思いつくんだけど、必ず朝の6時まで待って電話をかけてくるんだよ。6時まで我慢して、もういいだろうということでそこから大体、90分はずっと一方的にしゃべり続けるんだ。

––––90分は長いですね。

原 冬なんかは寒いから、私は途中で布団の中に入るんだ。そうすると「原さん、聞いていますか!」と、こちらが見えているのかと思うほどに即座に怒鳴って来る。「僕のアイデアについて意見を聞かせて下さい」と言うんだけど、それは経験上、ノーと言うと、ああ原さんは分かっていないと説教が始まる。

奥崎さんは自分が思いついたこと、それをやったっていうことが大事なんだね。そういう律儀なことがあったんだ。やったってことがつまり、奥崎さんの論理で言うと戦没者の供養になるわけだから、それが結果として自分が刑務所に入ろうが入るまいが、それは奥崎さんにとっては本当にどうでも良いと言う考えがあった。

奥崎謙三(写真/共同通信社)
奥崎謙三(写真/共同通信社)

––––沢木耕太郎が昭和50年代に「不敬列伝」というタイトルでかつて天皇に立ち向かった人物のノンフィクションを著しています。

そこに登場する人たち、食糧メーデーのデモで、朕はタラフク食ってるぞというプラカードを掲げた「プラカード不敬事件」(1946年)の松島松太郎、京大に来た天皇に公開質問状を渡そうとした「京大天皇事件」(1951年)の中岡哲郎、皇太子御成婚パレードに石を投げた「パレード投石事件」(1959年)の中山建設、皇居発煙筒事件(1969年)の金井康信、天皇面会未遂事件の徳丸修(1970年)などが全員、戦後30年の段階で、自らがおこした事件についてもう触れて欲しくないというようなネガティブな感情や振る舞いでいるんです。

皆、天皇制に負けたと言われている中、奥崎謙三だけがただ一人、天皇および天皇的なものと闘い続けていました。それは亡くなるまで。戦後80年の今では、さらに天皇制批判が困難な時代になってきていますが。

坂本 奥崎さんはそういう人生を貫徹しましたね。 

原 私はピンク映画の助手を務めて映画の基本を勉強した。ピンク映画って映画の学校みたいな所だと多くの人が言ってるんだけど、刑務所も思想勉強するのにそういうところがあるでしょう。特に奥崎さんは独居房だから考える時間が山のようにあるよね。

それで人間関係ってのは坂本さんがおっしゃったようにヤクザとかマイノリティとかいうような人たちとの付き合いがあることによって、要するに社会の階層って言われるものの、実態を知るわけですね。

奥崎さんは何かの裁判のときに一度精神鑑定を受けさせられるんだけど、軽いパラノイヤ(他人に対する不合理または過度の不信感や疑念を特徴とする心理的状態)っていう診断だった。だけど大体人間は生きてりゃ。みんな軽いパラノイヤだからね。

奥崎さんみたいな人は日本人の中で は突然変異みたいなもので2度と出てこないしょうね。この間、 NHK の勉強会に呼ばれて、奥崎さんのことは私の作った映画よりも実は裏話の方がはるかに面白い、私が全部話しますから、ドラマ化できませんかね、と言ったんですよ。

今の刑務所の中の坂本さんのお父さんとの出会い、思想形成や奥崎さんがいかに受刑者から慕われてたかって話はほとんどの人が知らないから面白いドラマが出来ると思うけどね。そしたら若い人が「やってみたいですね」と言ってましたが、NHKじゃ無理だろうね(笑)。

『ゆきゆきて、神軍』奥崎謙三が構想していた、人類の幸福のための「奥崎教」の全貌とは _4
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取材・構成/木村元彦 

現在、『水俣曼荼羅Part2』(仮題)の制作中

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