もしも長野で金を獲っていたら
球技で痛めた左足首は、なかなか治りませんでした。2月5日の札幌ワールドカップでは、37位。万全からはほど遠いコンディションで、僕は2月7日より白馬ジャンプ競技場で行なわれる、長野オリンピックに参加しました。
スキージャンプの代表選手は8名。このシーズンの僕のワールドカップ総合順位は13位で、その上に船木選手と、原田さん、斎藤さんがいました。上から4番手につけていた僕は、競技の出場枠を他の選手と争うことになります。
このとき風邪をひいていた僕は、点滴を打ちながら、宿舎で行なわれている選考会議の様子を見ていました。会議の結果、調子を上げてきていた岡部孝信さんをラージヒルに、僕をノーマルヒルに出場させることが決まりました。
僕は自分の得意なラージヒルに出たかったのですが、状況的に仕方ありませんでした。団体戦のメンバーは、個人競技が終わった時点で決めることになりました。
2月11日。個人ノーマルヒル(K点90メートル)の1本目で、僕は87.5メートルを飛んで5位。1本目を終えた時点で、1位が原田さん、4位が船木選手。僕にとって、逆転のメダルの可能性はありました。
しかし2本目は距離が伸びず、84.5メートル。金メダルはヤニ・ソイニネン(フィンランド)、銀メダルが船木選手。原田さんが5位で、僕は7位となりました。
そして2月15日の個人ラージヒル(K点120メートル)では、船木選手が日本人初の金メダル、原田さんが銅メダルを獲得。メダル獲得で、このふたりの団体戦出場は確定しました。そして残り2枠を、僕と岡部さんと斎藤さんの3人で争うことになりました。
査定の場となった、団体戦の公式練習。3本のジャンプで、僕はK点に届く120.0メートルを2本飛びました。必死のジャンプでしたが、出場枠を争うふたりに勝てたのは、1本だけでした。
そして結局、団体戦の残り2枠は、岡部さんと斎藤さんに決まりました。
僕にとっては、まさかの結果でした。
長野オリンピック代表の8名のうち、練習量と身体能力では、僕がダントツの1位でした。体力測定でも、常に原田さんや船木選手を圧倒して、筋力にしても瞬発力にしても、ダントツのスコアを叩き出していました。「こんなやつらに負けるはずがない」と常に思っていました。どうしてオリンピックになると、うまくいかなくなるのか。
2月17日に行なわれた団体戦(ラージヒル、K点120メートル)。僕は宿舎のテレビで、試合を見ていました。大雪のせいもあり、1本目で原田さんが79.5メートル。4年前のリレハンメルの団体戦の悪夢が甦りました。1本目を終えて、日本は4位。僕はメンバーから外された悔しさから、「それ見たことか」と思っていました。
しかし、そんな気持ちと裏腹に、足が勝手に動き出しました。2本目を見届けるために、僕は会場へ向かっていました。
大雪による一時中断を経て、競技は再開。僕が到着したときは、2本目の途中でした。僕にとっては初めての、日本でのオリンピック。まさかギャラリーとして見ることになるとは。会場の「ニッポン!」の大歓声の外に、僕はいました。
そして、日本の番が来ました。













