ケガを押しての強行出場
長野オリンピックが開催された、1997/98年のシーズン。97年11月29日、リレハンメルで行なわれたワールドカップ開幕戦で、僕は個人ラージヒルで3位に入賞しました。その後も転戦を重ね、一桁台の順位に何度もつきました。調子は上がってきていました。
それでもやはり、思い浮かぶのは母の顔です。移動中の飛行機でも、気がつくと母のことを考えています。金メダルを見せられなかった後悔。期待に応えられなかった悔しさ。
妹の顔も浮かびます。当時、妹は骨髄移植を必要としていたのですが、僕も姉も適合せず、ドナーを探していました。なんとか見つかってくれ……。
誰にも打ち明けることもできず、機内でひとり泣いていました。
次の転戦先はドイツ。年末年始のジャンプ週間に参戦しました。
ジャンプ週間の初戦は6位でした。1位は船木和喜選手、2位は斎藤浩哉さんでした。そして2戦目の予選の前日、アクシデントが起きました。
全日本チームのメンバーで、体育館で球技をしていたとき、左足首を捻挫してしまったのです。ワールドカップからずっと調子はよかったので、僕は試合に出るつもりでしたが、「オリンピックに備えろ」というコーチの命令に従い、残りのジャンプ週間の試合は欠場することにしました。
しかし、やはり気持ちが収まりません。年明けの1998年1月1日に行なわれた第2戦では、1位が船木選手、2位が原田さん、3位が斎藤さんと、日本勢が表彰台を独占します。
そして第3戦の開催日は、1月4日。この日は、亡き母の誕生日でした。勝利を母に捧げたい。足首の痛みも少しやわらいでいたので、無理やり出場しました。
結果は25位。1位は船木選手で、ジャンプ週間3連勝です。
1月6日の最終戦も、僕はテーピングをして出場しましたが、30位に終わりました。そしてこの最終戦で8位となった船木選手が、日本人初となる、ジャンプ週間総合優勝を達成しました。