「卒業式の後“飲む”となると私たち以外にはいなかったはずですが…」
東洋大学1年生時に行なわれたサークルの新歓コンパで出会い、以来交友関係が続いていた友人のA氏は、田久保市長を「昔から信念のある人だった」と♯29で語った。
田久保市長自身、これまでの会見で大学での生活について『自由奔放に生きて不真面目な学生で、いつまで(大学に)通っていたというような通学状況ではなかった』と話している。だが、A氏によると田久保市長はまったく学校に来てなかったわけではないようだ。
「東洋大学は単位が取れなくても4年生まではエスカレーター式にあがっていきます。なので卒業に必要な必修科目の単位のみ再履修してとればいいわけですが、私も眞紀ちゃんも再履修組でした。
眞紀ちゃんも卒業をしようとしていました。それこそ私たちが就職活動をしていた頃に学校で会うと眞紀ちゃんは『今レポート出してきた。これからスタジオなんだ』『これからバイトなんだ』と言っていたのを覚えていますから」
革ジャンを着て、ヘルメットを片手に再履修のため大学に通った田久保市長はバイク便のバイトをしながら音楽活動に没頭し、就職活動をすることはなかった。
サークル外のメンバーでバンドを結成し、ハイエースにアンプを積み込み、ライブハウスを回ったりデモテープを作ったりして夢を追っていたという。
「当時、眞紀ちゃんはかなり忙しそうにしていました。私と同じく単位はギリギリだったんだろうなという印象はありました。1992年の3月3日~5日、卒業式の直前ですね。河口湖の近くにあったスタジオ付き民宿でサークルの合宿をしたのですが、そこにも眞紀ちゃんは来ていました。
『私らも卒業できる?』などとそれぞれに尋ねてはいないのですが、合宿終了後の別れ際に『また卒業式で』とみんなで言い合いました。その時も眞紀ちゃんは普段通りでした」
A氏は「眞紀ちゃんは本当に卒業していたと思い込んでいて、卒業証書に関しては大学側の手違いで眞紀ちゃんの手に渡ったのでは?」と推測する。
「この状態が長引くと一番の被害者は伊東市民だというのは私も思うんです。ですが、いっぽうで同級生だから覚える違和感もあるんです。
眞紀ちゃんは大学で友人が多い方ではありませんでした。だから卒業式の後“飲む”となると私たち以外にはいなかったはずです。まず卒業式の後に眞紀ちゃんとは飲んでいません。それから『卒業式の後の飲み会で眞紀ちゃんが卒業できなくて、かわいそうだから同級生が卒業証書を作って渡した』という告発文が真実かのように報道されていましたが、そんなことをした同級生は周囲にいません」