「足は痛めつけるものじゃなくて、労るものよ」
私の視線に気が付いたのか、ファニーはニッと笑い、バッグからおもむろに何か取り出しました。ヒールが12センチはありそうな、ピカピカのパンプスです。
目的地につく寸前、彼女はさっとそのハイヒールに履き替え、颯爽と会場の中に消えてしまいました。そして蝶のようにヒラヒラと立ち回り、あちこちで関係者と歓談しています。
足が死にそうに痛くてしかめっ面だった私は挨拶回りをすることもできず、椅子に座り込んでしまいました。わざわざイベントに足を運んだ意味が全くなく、撃沈しているとファニーが飲み物を持ってきてくれました。
「足は痛めつけるものじゃなくて、労るものよ」
そう言って私の肩をポンポンと叩くと、再びローファーに履き替え、「じゃあね」と言い残してさっさと帰ってしまいました。
一人でヒールを睨んでいても仕方ないので、私は重い腰をあげ、その日はタクシーを呼んで仕方なく帰宅の途についたのでした。
その後、私もファニーを見習い、「昼はペッタンコ、夜のお出掛けの時だけヒール」というテクニックを使うようになりました。パンプスの呪縛から解放されたのです。
すると、当たり前のことかもしれませんが、フットワークが非常に軽くなりました。パリジェンヌのように、「ちょっとした距離なら歩いちゃおう」という発想が湧いてくるようになったのです。
それは「歩くのは苦痛」だと思っていた私にとって大きな発見でした。それまで苦痛だったのは靴のせいだと思うと、俄然歩く意欲が出てきます。一旦ペッタンコの靴に履き替えてしまうと、メトロ1駅、2駅分の距離くらいなら平気で歩けるようになるのです。
そのことをファニーに打ち明けると、彼女はこう断言しました。
「これからはスニーカーの時代よ」
彼女の予言が見事的中したのは、今から10年前くらいのことでしょうか。パリっ子のスニーカー人口が一気に増えたのです。
スニーカーのことをフランス語では「バスケット」と呼びますが、それまではどちらかと言えば女性の間では「ダサい」と思われていた靴です。
それがその頃からスポーツ・メーカーばかりでなく、ハイ・ブランドも力を入れるようになり、スニーカーはあっという間に「なくてはならないファッション・アイテム」という地位を獲得したのです。
その頃から私が所有するヒールは靴箱で埃をかぶるようになりました。そしてスニーカーの量がどんどん増えていきました。私もスニーカーを普段使いするようになったのです。
ヒールからペッタンコの靴、そしてスニーカーに移行した私です。そうこうしているうちに、パリジェンヌのように「一日1万歩」を達成することができるようになっていました。すると、それまでよく壊していた胃の痛みにも悩まされないようになっていました。
しかし、まさか自分がマラソンに参加する日が来るとは、その時は夢にも思っていませんでした。
#4に続く
文/藤原淳 写真/Shutterstock