「日本人だ」と痛感したフランスでのコンサート
1972年に発表された五輪真弓(当時21歳)のデビューアルバム『少女』は、シンガー・ソングライターのアルバムとしては、日本で最初のロサンゼルス録音盤になった。
しかも当時、アルバム『つづれ織り』が大ヒットしていたキャロル・キングがレコーディングに参加したことでも話題になった。
プロデュースとエンジニアリングは、録音場所のクリスタル・サウンド・スタジオの創始者で、キャロル・キングの『ライター』のプロデューサーでもあるジョン・フィッシュバッハが担当した。
「当時はまだ日本が侍の国という見方をされていたので、彼らにとっては大変珍しいレコーディングだったのです。おそらく日本人シンガー・ソングライターのセッションという形では初めてだったのではないでしょうか。私が緊張しているのをみて、みんなが優しく、積極的に話しかけてくれました。コード譜だけの譜面でしたが、決めたい部分は同行したアレンジャー木田高介さんが指示をしていました。彼は私の良きアドバイザーでもありました」(五輪真弓)
木田といえば、1967年に早川義夫をリーダーとするジャックスに参加したのをきっかけに、解散後は小室等の六文銭に一時在籍。その後はアレンジやプロデュース業を幅広く手掛けていた才人だ。
五輪真弓はその後、1976年に4枚目のアルバム『Mayumity うつろな愛』がCBSフランスに絶賛されたことをきっかけに、フランスでもアルバム制作の申し出があり、全曲フランス語によるアルバム『えとらんぜ』を発表。
また、1977年にはパリのオランピア劇場で、サルヴァトール・アダモの2週間にわたるコンサートに、ゲストとして招かれて出演した。しかし、フランス人を前にフランス語で唄っていたその時に、「(自分は)日本人だ」と痛感することになったという。
そんなこともあって、帰国後から五輪真弓は大衆向けに歌謡曲テイストの歌を書くようになり、1978年に『さよならだけは言わないで』がヒット。この時からアレンジャーが船山基紀になったのは、シンガー・ソングライター路線から、ポップス寄りに方向を変えるためだった。