淡谷のり子、美空ひばりもカバーした『恋人よ』
船山は、五輪真弓の楽曲には日本人のDNAに訴える要素が多分に含まれていると感じて、広い層に支持されるアレンジを目指したという。
1980年代に入った5月のこと。五輪のもとに衝撃的な訃報が届く。デビュー時から家族ぐるみで可愛がり支えてくれた良きアドバイザー、木田高介が突然の交通事故で亡くなったのだ。
恩師を失ったショックの中、打ちひしがれて慟哭する夫人の姿が忘れられなかった。告別式から帰ってきた五輪真弓は、二度と再会が叶うことのない“別れ”を綴った歌詞で『恋人よ』を書き下ろした。
『恋人よ』は当初、1980年8月21日に発売されるシングル『ジョーカー』のB面になる予定だった。編曲の船山基紀は、CBSソニーの担当ディレクターだった中曽根皓二から「B面はお任せする」と言われたので、スケールの大きなバラードだったこともあり、48秒もある長いイントロをつけた。
ところがレコーディングをしてみたところ、明らかにB面の出来が「すごくいい」という意見が多く、急遽A面に昇格することになった。1977年に沢田研二の『勝手にしやがれ』で日本レコード大賞に輝き、ヒット曲の職人とも言われていた船山でさえ、思わぬ展開に慌てたという。
「面食らった。確かにスタジオで彼女の録音を聞いていても、これはいい曲だと思ったが、A面にするならあんなに長イントロ作ることもなかったので、どうしたらいいか途方にくれた。当時、五輪さんはテレビに出て歌う機会も多かったので、なんとかテレビ用に多少は短くしてみたものの、焼け石に水。もうそのままいくしかなかったが、今考えても驚異的な長さだ」
あまりに長いイントロの曲なので、テレビやラジオでプロモーションできるかどうかという心配をよそに、『恋人よ』はテレビで披露されると、すぐに評判になってセールスが急上昇した。
そして年末の日本レコード大賞にノミネートされて、グランプリは逃したものの、金賞に選ばれた。五輪真弓はNHK紅白歌合戦にも初めて出場した。
「私にとって賞云々よりも、ジャンルを超えた日本のスタンダードナンバーに関われたことが大きな誇りである」(船山基紀)
『恋人よ』は、昭和を代表する大歌手・淡谷のり子や美空ひばりらが自身のレパートリーに加えた。
文/TAP the POP
<参考文献>
「ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代」(リットーミュージック)