「怖くて行けませんでした」50代から慰霊登山ができるようになった理由
その後、相田さんはヘリポートの構築や現場での仮眠後にご遺体の収容や搬送作業を行い、15日朝に習志野へ帰投したという。
「俺らがやらなければいけない」その一心で、生存者の救出や諸々の作業にあたったが、この日から30年以上もの間、相田さんはあらゆるストレス障害に悩まされることになる。
「まず夜まともに眠れなくなりました。真っ黒こげのスーツ姿の男性に首を絞められたり足を引っ張られて金縛りにあったり、赤ちゃんを抱いた女性が立っているのが見えたりと、事故直後は毎晩のようにそんな状態でした。『V-107』のヘリの音を聞くと動悸がしたりもしました。
“夜のお客さん”は年を追うごとに数は減ったものの、週に1回なのか月に1回なのか、50代頃まで来ていましたね」
事故以降、精神的に追い込まれた相田さんは、任務に支障をきたしてしまう。
「それは自分の不注意による怪我でしたが、これ以上の事故を起こし仲間に迷惑をかけてはならないと思いました。そして空挺を去る決意をして依願退職したのです」
相田さんが退職したのは20代後半のことである。『自分はぶっ壊れてしまった』と思い込み自暴自棄になり海外の紛争地に行きゲリラ兵として活動していたという。
「不思議と紛争地にいた2年ほどの間はストレス障害に悩まされることはなかったのですが、30代で日本に戻ってから50代まではずっとおかしな状態は続いていました。
それに、こんな自分を見捨てず声をかけ続けてくれた傘友(元空挺団の隊員)のお陰で50代からようやく慰霊登山ができるようになりました。空挺団のイベントにも顔を出せるようになったし。
なにより慰霊登山はそれまで怖くて行けませんでしたから。そして2016年には作間二曹が亡くなって……“夜のお客さん”が完全に来なくなったのは、それくらいからだったのかな……」
相田さんの御巣鷹山の慰霊登山は今年で11年目ほどになる。あの日あの時、現場で一緒に救助にあたった仲間達と前日から山に向かい、ちょうど自分達が山に降り立った朝10時頃には現場に着くようにしているという。
「人生の半分をストレス障害に悩まされずいぶん苦しみましたが、仲間や妻のおかげでようやく乗り越えられたような気がしています。いまは公共交通機関の運転手として現役で働けていること、好きな車いじりができていることがなによりです」
相田さんは「あの事故により人生が変わってしまった」などという恨み節のようなものは一言もこぼさなかった。「足腰の丈夫を保ち、慰霊登山は生涯続けていきたい」と、御巣鷹の頂を見つめ続ける。
※取材後日談※
相田さんを取材したのは6月20日のことだった。原稿確認のためにご連絡をした際、こんな話をしてくれた。
「7月末くらいに数年ぶりに“夜のお客さん”が来ました。いつもの黒いスーツ姿の男性です。でもいつもと違ったのは、顔がなんとなく見えたこと。これまでは真っ暗の中、顔かたちは一切わからなかったのです。
『こちらに向かって来た!』と思ったら回れ右して、振り返ったその顔は普通の男性の顔に見えました。その後、見えた光景はたくさんの仕事帰りなのか親子なのか、皆さんが普通の姿で出口に向かって歩く姿です。
勝手な想像ですが、さまよっていた方達が大坂の空港を出て行ったのか…と感じました。翌朝、頭の中がいつになく軽くなった気がしました」
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班