「一切の取材を断ってきた」…生存者を救出した自衛隊員

日航機墜落事故当時、週刊誌には今では考えられない写真が掲載されていた。1985年8月30日号のある写真週刊誌には丸こげのご遺体や木から垂れ下がる腕、土中から飛び出す足などの報道写真が数多く載っている。

同号には12歳の少女を墜落機体から救出したばかりの元陸上自衛隊・第1空挺団の相田さん(64歳、仮名・当時は24歳)も呆然とした姿で写っている。

相田さんは事故以降、ストレス障害と闘いながら生きてきた。これまで「一切の取材を断ってきた」が、40年という節目に「ようやく語る気になった」として記者の取材に応じてくれた。

陸上自衛隊の第1空挺団といえば日本唯一の落下傘部隊である。国家の最も困難かつ重大な震災や侵略時に迅速に空中機動し落下傘で降着し、任務を果たす精強な部隊だ。

少女を抱えながらヘリに吊り上げられた作間二曹は部下らの間で「悪魔二曹」と呼ばれ、恐れられながらも敬われていた。

12歳の少女を抱え、ヘリに吊り上げられる故・作間優一二曹(写真/毎日新聞社)
12歳の少女を抱え、ヘリに吊り上げられる故・作間優一二曹(写真/毎日新聞社)
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相田さんは作間二曹のもとで「まずは自分を守れ」「つまらない怪我はするな」「基本をしっかりやれ」と教わり、時には銃剣道という模擬銃で胸部や喉を突き勝敗を競う現代武道でしごかれた。

「悪魔と言っても誰も作間二曹を嫌う人はいませんでした。『悪魔と同じ塹壕なら生き残れる』と信頼は厚く、気前よく面倒見のいい大先輩でした。

40年前の8月12日、19時近くの臨時ニュースで日航機が行方不明との第一報を知り『墜落なら海か』くらいの認識でした。自分は2日後に休暇を控えていたこともあり、出動はないだろうと思っていたのです」

だが、時間を追うごとにテレビの速報では墜落現場は山梨、長野、群馬などの山間部との情報が入り、千葉県船橋市にある陸上自衛隊習志野駐屯地の空気は張りつめていく。

だが22時の消灯時点では派遣要請などの命令はなかった。しかし気になった相田さんは深夜に当直室に行く。

取材に応じる相田さん(撮影/集英社オンライン)
取材に応じる相田さん(撮影/集英社オンライン)

「おそらく防衛庁長官からの命(めい)が下るはず。ヘリからリペリング(ロープでヘリから直接下降すること)し、災害派遣することになると聞きました。

早朝4時過ぎに命令受領ラッパが鳴り、背のう(リュック)に水筒や乾パンを詰め込み『V-107』に乗りました。自分は二番機で作間二曹と同じヘリでした」