終わっていなかった帝国主義

 最近、面白い動画を発見したんです。「ベルリン・天使の詩」で知られるドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが、「自由への鍵」という4分くらいの動画をYouTubeで公開しています。

フランスのランス市にある学校が、第二次世界大戦中に連合国の臨時司令部になっていて、アイゼンハワーが戦争が終わった後にランス市の市長に司令部の鍵を返す時に、「これが自由への鍵だよ」と言って渡したという。鍵は今もそのランス市の学校に展示されているんですけど、今では誰もほとんど覚えてない状況の中で、ヴェンダースがそれを見に行くんです。そして最後に「もうアンクル・サムは今までのように世界の自由を守ってくれないだろう。私たちの自由は私たちで守らなきゃいけない」と述懐する。そんなあらすじです。

まさにヨーロッパが「アメリカはもう頼りにできない」というメッセージを明確に打ち出してきているのを見て、感慨に浸っていたところ、同じドイツの首相が、イスラエルのイランの核施設への攻撃に対して、「イスラエルは人類の汚れ仕事をしてくれている」と言い出して……。ヨーロッパも一体どうなっているのか?と。

トランプと独首相メルツ 2024年5月ホワイトハウスにて 写真/Shutterstock
トランプと独首相メルツ 2024年5月ホワイトハウスにて 写真/Shutterstock

三牧 ドイツの親イスラエルぶりを踏まえたとしても、衝撃的な発言でしたよね、まず核施設を攻撃するのは、非常に危険なことで、しかもこれは国際法が認めていない「予防攻撃」。それを「人類のための汚れ仕事」と言ったわけです。

西洋の政治思想の歴史において、欧米がいかに「人類」という言葉を、自分たちの帝国主義や植民地主義を正当化するために使用してきたかを考えても、あまりに大きな問題がある発言です。一応我々が生きている今の世界は「帝国主義や植民地主義は終わった」という立てつけで、中小国も主権を認められ、国連の加盟国になっています。ですが現実には、西洋の植民地主義的なメンタリティーも、形を変えつつも実態は残っていて、それがドイツという先進国の首相の口をついて出たというわけでしょう。

こうしてG7が道義的に凋落する今、一体どこが自由や民主主義のリーダーなのか。そこで台湾が浮上するわけですが、オードリー・タンさんが面白いなと思うのは、民主主義の価値を信じつつも、「我々台湾こそが素晴らしい価値を体現している」とナショナリスティックな話にはしない。

むしろ、その素晴らしい台湾が形成される過程には、アメリカや中国、EUなど他国や地域からの重要な学びがあったと、あくまで世界のそれぞれの地域に、歴史・文化に即した素晴らしい面があり、それぞれが学び合うことができるという謙虚な姿勢がある。

「自分たちは素晴らしい民主主義を実現した」と、歩みを止めてしまうのではなく、世界の他の地域ではどういう実践があって、何を学ぶ必要があるのかを常に観察し、民主主義は絶えず更新し続けていく。

対照的に、アメリカはずっと体制間競争をしてきている国で、自分たちが最も素晴らしい価値を体現していたから、冷戦ではソ連に勝ったのだと自負する。非欧米世界への「民主主義の輸出」の名目で戦争までする。そしてその後は中国を相手に、また体制間競争をしている。アメリカ外交の歴史において、民主主義は非常に頻繁に、非欧米地域への蔑視や優越感、さらには暴力を伴ってきました。
 
こうした民主主義論を克服し、他の地域や文化に対する尊敬と共存の意思を伴った民主主義論への希望としても、『PLURALITY』は重要ですね。

 アメリカってそういう意味では、「普遍」を自称している割にかなり特殊なところがある気がします。反トランプの「ノー・キングス」デモにしても、「我々は王政を廃止した」というところにアメリカたるアイデンティティーを強調していたことが興味深い。その一方で、じゃあ誕生日を祝う軍事パレードのような「トランプ的なもの」は反アメリカなのか? そこのところを僕は知りたくて。

ひとつの国の中に「リベラルデモクラシー的なもの」と「トランプ的なもの」が相反して共存してしまっている、アメリカってそういう国なのかな?と思ったんですけど。

三牧 それは非常に本質的な問いで、私も断定的には答えられないのですが、「アメリカ例外主義」という言葉があって、これはアメリカ外交を見るうえでのキーワードだと思います。