若いころからモテモテだった

さらに自身を踏まえ、「高齢者」に対し「長経験者」という呼び名を「発明」したという中松さん。中松さんを筆頭とした元気な「長経験者」たちが、子育てを支援するというのも対策として考えられるだろう。

「全方位発明家」である中松さん。だが、これまで発明してこなかったジャンルはあるのだろうか。

「振り返ってみると、『モテるため』といったジャンルの発明はしていないと思います」

意中の人を射止めたい。この世に生を享けた多くの人たちが一度は抱く願望だろう。ドクター・中松の発明リストに並ばなかったのはなぜなのか。

「常にモテていたからなんですね。若いころ、吉田茂首相の専属シェフさんに『早川雪洲(戦前にハリウッドで人気を博した俳優)の若い時にそっくりですね』と言われたこともあります。

会社員時代、宴会の場に行くと新橋から来た芸者さんたちが『あら、いい男ね』『(俳優の)長谷川一夫みたい』って、寄ってきて話したがったものです。それで上司や同僚から羨ましがられました」

それだけでなく、東大生時代より資産家令嬢たちから「結婚してほしい」「うちの婿に」という話が尽きなかったのだとか。

若かりしころのドクター・中松(本人提供)
若かりしころのドクター・中松(本人提供)

確かに、青年時代の写真を見ると、五月人形のような頼もしくも柔らかさをたたえる美青年である。

「母の遺伝子だと思います。母は聡明で美しく、私の誇りでした。女学校の教師を務めていたころは、生徒たちに当時の美人女優の『グレタ・ガルボ』と呼ばれたそうです。

私は母の母乳を普通の人よりも長い6歳まで飲んで育ったのですが、それにも母の深い愛情を感じています。母の遺伝子を充分に身体に吸収したのです。母は101歳で亡くなりましたが、私が長寿なのも母の遺伝子のおかげもあるでしょう」

その他にもモテた理由をこう分析する。

「私は人の悪口を言わない。そして、誰だとしても人の話をきちんと聞くようにしている。自分だけではなく、みんなの幸せのために行動する。これは母からの教えです。

いわば、私がモテていることは、発明の力じゃなかったんですね」

確かに中松さんのモテモテぶり、もとい慕われぶりは年々増しているようだ。