「可動性」という考え方
移動は、「結果的に移動できたか」だけでなく、「移動できる可能性が、どのぐらい高いか」という潜在的な移動の実現可能性から考えることも大切だ。スイスの社会学者ヴィンセント・カウフマンは、潜在的な移動可能性、つまり個々人が移動を可能にする能力を持っていて、その潜在能力を自分の移動や活動に役立てることを「可動性(Motility/モティリティ)」と概念づけた(※Kaufmann:2002)。
私はこれを「移動資本」とも呼ぶが、ある人の可動性は、
① アクセス:移動のために利用可能な選択肢を選べる条件(移動や通信が利用可能な経済的・時空間的条件など)
② スキル:アクセスを利用するために必要な能力やノウハウ(運転スキル、目的地へと効率よく達するための情報調査能力や地図読解能力など)
③ 多様な移動の仕方の中で何を求め実践するかの計画や欲求(価値観、認識、習慣、経験などと関連して形成されるもの)の点から考えることができる。
この3要素以外にも可動性を規定する細かな要素は存在する。ただ、ここで押さえてもらいたいのは、可動性や移動資本には差があり、潜在的な移動可能性は資本となり、人々の移動格差を拡大させるということである。要するに、移動は個人にとってさらなる移動や活動を実現していくための元手になり、それは増えたり減ったり蓄積したりできると考えられるというわけだ。
移動は社会から独立して存在しない
移動格差について本格的に議論を進めていく前に、本書における「移動」という概念の考え方と用法を整理しておきたい。言葉の意味を正しく定義し理解することで、議論の解像度が一段上がる。まず、鍵を握るのは「モビリティ」と「ムーヴメント」の使い分けである(※Cresswell:2006、Adey:2017)。
移動は、社会の中で独立して存在しているのではなく、社会の構造や文脈などとの相互作用の中で成り立っている。どういうことだろうか。具体的に考えてみよう。
たとえば、車や鉄道での移動は、道路や線路というインフラがなければ成り立たない。ある日、朝起きたら高速道路が急にできていた、なんて魔法みたいなことはない。高速道路は専門的な技術や特殊な機械を使って、スキルを持つ人や企業が力を合わせて作る。
高速道路の作り方をめぐっては細かな取り決めが多くあり、それを定める法律や制度政策は、政治家や官僚、専門家などによって日々議論されアップデートされている。そこには、住民の運動や政治行動、SNSでの発言といった市民の声も反映されている。
ここでは高速道路の建設を例に取ったが、その上を車で走る人も制限速度や車体のルール、他の車との車間距離などを意識しながら走っている。自分一人で、自由にスピードを出したり、蛇行運転したりはできないし、ほとんどの人はできるチャンスがあってもしない。
これが、移動は、社会から独立して存在していないという意味である。
※Urry, J.(2007)Mobilities, Polity.(=2015,吉原直樹・伊藤嘉高訳『モビリティーズ―移動の社会学』作品社).
※Kaufmann, V.(2002)Re-Thinking Mobility: Contemporary Sociology, Ashgate.
※Cresswell, T.(2006)On the Move: Mobility in the Modern Western World, Routledge.
文/伊藤将人 写真/shutterstock